質量分析屋の髙橋です。 今までLC/MSに関する内容を中心に、基礎的な内容について書いて来ましたが、今回から何回かに分けて、質量分析としては比較的新しい技術として、質量分析イメージングについて解説します。質量分析イメージング(mass spectrometry imaging, MSI)とは、生体組織切片など平面状の試料に対して、レーザー照射などによって直径数µm~100 µmの微小領域から試料表面に存在する分子をイオン化してマススペクトルを測定し、イオン化の位置を少しずつ変えながら二次元的に万遍なく繰り返す事で、イオンのm/z情報から試料中の分子の分布情報を可視化する技術です。MSIの分析イメージを図1に示します。 MSIは、薬物動態解析の分野では、投与した医薬品やその代謝物が狙った臓器に移行しているか確認できるため、ドラッグデリバリーシステム研究で注目されています。また、疾患に関連するマーカー物質の探索研究などにも使われ始めています。MSIによる薬物動態解析例として、抗うつ薬であるイミプラミンとその代謝物の、マウス腎臓における分布の様子を図2に示します。 MRI (magnetic resonance imaging)やPET (positron emission tomography) などは医療分野で用いられているイメージング技術ですが、MSIはこれらの技術に比べると、分子自身の情報(イオンの質量(m/z値))を使うという点が利点だと言えるでしょう。 MSIでは平面状試料の表面における微細領域からイオンを生成させる必要があり、イオン化の種類と空間分解能の間には密接な関係があります。LC/MSでは分析種の物理化学的な性質に応じてイオン化の種類(ESI, APCI, APPIなど)を選択します。MSIではそれに加え、あるいはそれ以

質量分析屋の髙橋です。大分前になりますが、このコラムでマスディフェクト値について解析しました。今回は、その具体的な例を、実際のマススペクトルを見ながら解説していきます。 図1に正イオン検出のエレクトロスプレーイオン化で得られたペプチド(ロイシン・エンケファリン)とシロキサンのマススペクトルを示します。両方とも高分解能質量分析計を用いて得られたデータであり、m/zの確度は高いです。 このシロキサンのマススペクトルは、LC/MSにおいて頻繁に観測されるバックグランドイオンとして、このブログで紹介しています。注目すべきは、両スペクトルでメインピークとして観測されているイオンのm/z値の小数点以下の数値です。両者ともに整数部分は500台で大差ないのにも関わらず、小数点以下の数値は(a)では0.3204、(b)では0.1666と大きく異なっています。上で紹介したマスディフェクト値に関するコラムの中の図2で示しているように、500程度の質量の分子に対して、精密質量の小数点以下の部分が0.1666と言うのは、通常の有機分子に対しては小さすぎるため、この事を見て図1(b)に示すマススペクトルは何らかの夾雑物由来のイオンである可能性が示唆されます。もちろん、このような物質が分析対象となる事もあると思いますので、その場合には夾雑物とは言えませんが。 ただし、フラボノイド配糖体のように、分子中に多くの酸素原子を含む有機分子では、質量の小数点以下の部分がペプチドなどよりもかなり小さくなります。蕎麦などに多く含まれるルチンのモノアイソトピック質量は610.15338であり、図1(b)で観測されているm/z 610.1860(理論値は610.2201)よりも更に小さな小数点以下の数値をもちます。フラボノイド配糖体は、植物系の天然物の分析では非常に重要な物質であり、単純に小数点以下の数値だ

質量分析屋の髙橋です。ペプチドやタンパク質など、分子内にアミノ基などプロトン受容性の官能基を複数もつ物質を正イオン検出のエレクトロスプレーで測定すると、1つの分子に対して複数のプロトンが付加した多価イオンが生成し易い事は良く知られています。 マススペクトルの横軸はm/z(mはイオンの質量を統一原子質量単位で割った値、zはイオンの電荷数)で表され、zが1の時つまりは1価イオンでは、m/zはイオンの質量と等しくなり、イオンのm/z値とイオン種から元の分子の質量を推測する事が出来ます。 一方、zが複数の時つまり多価イオンの場合、m/zとイオンの質量は大きく異なり、イオンの電荷数が分からないと元の分子の質量や分子量を推測する事は出来ません。 多価イオンのマススペクトル解析では、イオンの電荷数を知る事は極めて重要です。 ここでは、ペプチドやタンパク質の正イオンエレクトロスプレーにより得られたマススペクトルを例にとり、多価イオンの電荷数を判断する方法を2つ解説します。   1.同位体の分離挙動から判断する方法     これは、同位体ピークのm/z差から電荷数を判断する方法です。以前のこの記事で、マススペクトルにおいて観測される同位体ピークについて解説しています。C, H, N, Oを中心に構成される通常の有機化合物のマススペクトルでは、モノアイソトピックピークに対して約+1の質量をもつ同位体ピークの大部分は、13Cを1つ含む分子由来です。同位体の質量差は約1なので、1価イオンの場合、同位体ピークのm/z差は1になります。ところが多価イオンでは、マススペクトルの横軸はm/zなので、同位体ピークのm/z差は1を電荷数で割った値、即ち2価イオンでは約0.5、3価イオンでは約0.33になります。実際のマススペクトルで確認してみましょう。図1に正イオンエレクトロスプレー

質量分析屋の髙橋です。この仕事をしていると、QTOFと(Q-)Orbitrapはどちらが良いですか? と聞かれる事がよくあります。両者とも、現在MS/MS(プロダクトイオン分析)可能な高分解能質量分析計として、プロテオミクスやメタボロミクス、天然物中の未知化合物の構造推定などの用途に双璧をなす装置だからでしょう。今日は、両者について一緒に書いてみたいと思います。 最初に結論を書いておきますが、「個人的にはどちらが良いとは言えない」です。 QTOFは、Q(四重極質量分析部)とTOF(飛行時間質量分析部)を直列に配置したハイブリッドタンデム質量分析計です。正式名称は、四重極-飛行時間質量分析計(quadrupole time-of-flight mass spectrometer)、略す時は、QTOF-MSあるいはQ-TOFMSなどと書きます。前段にQを接続しない単体でのTOFMSについては前回解説しました。 Orbitrapは、学術名はKingdonトラップと言い、キウイフルーツの両端を引っ張って伸ばした様な形状の質量分析部(計)です。Orbitrap単体でも質量分析計として市販されていますが、ここではQTOFと比較するので、Qを前段に配したQ-Orbitrapについて書きます。Thermo Scientific社からQ-Exactiveなどと言う名称で市販されています。Q-Orbitrapは、QTOFと同じハイブリッドタンデム質量分析計に分類されます。 特許の関係で、Orbitrapを開発・販売しているのはThermo Scientificのみですが、QTOFは、Bruker, Sciex, 島津, など複数の企業が開発・販売しています。ざっと調べたところでは、QTOFそのものに関する特許は見当たらないので、誰も基本の技術は権利化しなかった様ですね。QTOFが

質量分析屋の髙橋です。前回から質量分析部の話を書き始めていて、先ずは“イオントラップ”を取り上げました。前回予告した通り、先ずは定性分析向けの質量分析部を取り上げていこうと思いますので、今回は“飛行時間質量分析部”を取り上げます。飛行時間は英語ではtime of flightなので、飛行時間質量分析計は通常TOFMSと略されます。タイトルは質量分析部としていますが、ここでは書きやすいので、略語ではMSを使う事にします。  このシリーズでは、余り原理的な事は書かず、特徴や用途に関して中心に書いていこうと思います。TOFMSの特長は、質量分解能が高い事とスペクトル取込スピードを速く設定できる事でしょう。TOFMSがMALDIとの組合せで日本市場に登場したのは、もう30年以上前になると思いますが、当時は決して質量分解能の高い装置とは言えない代物でした。TOFMSはパルス的にイオンを生成するイオン化法との組合せが容易なので、MALDIとの組合せにおいて最初に実用化され、EIやESIのような連続イオン化との組合せが可能になったのは、直交加速と呼ばれる技術が開発されてから後の事です。そして、TOFMSが高分解能質量分析計として認知されるようになったのも、凡そその頃からだと思います。 高分解能の利点は、低分解能では重なってしまうm/z値が近いイオン同士を分離出来る事つまり選択性の高さと、イオンのm/z値を正確に測る事が出来る事です。イオンのm/z値とイオン種から元の分子の質量を推測する事が出来るため、“イオンのm/z値を正確に測る事=分子の精密質量を知る事”となり、その数値から分子を構成する元素組成即ち分子式を推測する事が出来ます。分子式が推測できるというのは、定性分析においては本当に重要で、特に有機合成の分野で論文を書いた場合、高分解能質量分析による組成推定の結果を記載する事は、

質量分析屋の髙橋です。前々回・前回に引き続き、分析目的と質量分析計の種類について書いてみます。今回は、質量分析部についてです。質量分析部は、イオン化部で生成したイオンを、そのm/zに応じて分離する場です。真空中でイオンに何らかの力を加えて運動させる訳ですが、イオンのm/zの大きさに依って、その運動の仕方(スピードや運動の軌道など)が変わるため、イオンをm/zに応じて分離する事が出来ます。現在市販されている質量分析計には、様々な質量分析部が使われています。二重収束(磁場&電場)、四重極、三連四重極、飛行時間、イオントラップ、オービトラップ、イオンサイクロトロン、リニアイオントラップ、異なる2つの質量分析部を直列に配したハイブリッドタンデム、など。それぞれの質量分析部は、質量分解能の違いやMS/MSが可能かどうか、定量分析における選択性の違い、など、機能(出来る事、得意・不得意)が異なります。 従って、質量分析の目的に応じて、質量分析部を選択する事になります。 イオン化部は、分析種の物理化学的な性質に応じて使い分ける必要がある事は、前回の記事で解説しています。イオン化部は、質量分析計の構成の中では比較的安価であり、通常1つの質量分析部に対して複数のイオン化部を接続可能で、装置として複数のイオン化部を保有していれば、分析種の物理化学的な性質に応じて、それらを交換しながら複数のイオン化部を用いる事が出来ます。そして、その中で最も適したイオン化部を用いて質量分析を行う事が可能です。 一方質量分析部は、文字通り質量分析計の中心であり、質量分析部=質量分析計と言って差し支えありません。実際、質量分析計の名称は、質量分析部の名称(と時としてイオン化部を組み合わせて)そのままである場合が多いです。四重極質量分析計(部)、飛行時間質量分析計(部)、などです。定性分析と定量分析では、通

質量分析屋の髙橋です。前回に引き続き、分析目的と質量分析計の種類について書いてみます。今回は、予告通りイオン化にフォーカスします。つまり、どんな分析の時にどのイオン化を使うのが良いか、という内容です。本論に入る前の前提として、イオン化は試料導入法と密接に関係している事を知っておく必要があります。例えば電子イオン化(electron ionization, EI)は、直接試料導入やGCを介する試料導入(GC/MS)には使えますが、LC/MSには現在は使えません(以前はLC/MSに用いるEIが市販されていたが)。また、LC/MSに用いられているエレクトロスプレーイオン化(electrospray ionization, ESI)や大気圧化学イオン化(atmospheric pressure chemical ionization, APCI)は、GC/MSには一般的には使えません(GC/MSにAPCIを組み合わせた装置を販売しているメーカーはある)。 つまり、最初に書いた事をひっくり返すようで恐縮ですが、分析目的に応じてイオン化を選択するというよりは、先ずは試料導入法を選択してその上でイオン化法を選択する、と言う事になります。試料導入に関しては、前回の記事を参考にしてください。今回は、各試料導入について、どのイオン化を選択すれば良いか、について解説していきます。 1.直接試料導入(DI) DIについては前回の記事でも少し解説しましたが、現在市販されている全てのイオン化法で用いる事が可能です。DIによる試料導入において、イオン化法に何を選択するかは、試料の形態によって大きく変わります。例えば単離精製された試料の分子質量を確認したり、またそのマススペクトルを標品と比較して同定したりする場合、FAB(fast atom bombardment、高速原子衝撃法)のように、[M

質量分析屋の髙橋です。今回から数回に亘って、何かの試料を質量分析する時、その目的に応じてどのような質量分析計を使えば良いのか? という内容について解説します。なかなか広い話になるので、何回かに分けて、書き進めていこうと思います。この内容を解説するために、先ずは質量分析計の構成(図1)を確認しておきましょう。     質量分析計は、試料導入部-イオン化部-質量分析部-検出部から構成されます。試料導入部は、アンビエント質量分析のような直接試料導入(Direct Inlet, DI)、ガスクロマトグラフィー(Gas Chromatography, GC)や液体クロマトグラフィー(Liquid Chromatography, LC)を用いた成分分離を伴う導入があります。イオン化については、以前何回かに分けて解説していますが、EI, CI, ESI, APCI, など市販装置に用いられているだけでも10種類以上あります。 質量分析計の種類は、先ずは試料導入法によって分けられます。DI-MS, GC-MS, LC-MSといった具合です。この分け方は、イオン化部や質量分析部に何が使われているかに関係なく、試料導入法だけに関係します。  DIは、試料成分の分離を伴わないため、一般的には単一成分の試料の分析に用いられます。また、混合物試料であっても、試料全体のイオンプロファイルを短時間で確認したい場合などにも用いられます。DART (Direct Analysis in Real Time)に代表されるアンビエント質量分析計や、MALDI-MS(Matrix Assisted Laser Desorption/Ionization Mass Spectrometer、マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析計)は、最近ではDI-MSの代表例と言えるでしょう。その他、EIや

LC/MSで頻繁に観測されるバックグランドイオンの代表例は、少し前の記事に書いた可塑剤由来のイオンですが、他にも色々と知られています。その1つは、シロキサン由来のイオンです。そのマススペクトルを図1に示します。これは、可塑剤由来のイオンと同様、正イオン検出で観測されます。 図1 シロキサン由来のバックグラウンドイオン ☆印を付けた4つのピークのm/z差は何れも約74であり、これは(CH3)2SiOに相当します。これらのピークがシロキサン即ちケイ素原子を複数個含む化合物由来である事が判断できる理由は、各ピークの同位体パターンです。最も強度の高いm/z 536イオンはモノアイソトピックピークであり、m/z 537, 538, 539は同位体イオンです。この同位体を含むピーク群は、非常に特徴的な同位体パターンを示しています。それは、m/z 536ピークに対して+1および+2の同位体ピークの相対強度が非常に高い事です。+1は約45%、+2は約30%を示しています。通常の有機化合物の構成元素はC, H, N, O, P, S, Clなどですが、+1の同位体ピーク強度に寄与する元素は主にC、+2の同位体ピークの強度に寄与する元素はSとClです。図のマススペクトルにおいて、+1の強度からCは40個程度、また+2の強度から、Clであれば1個、Sであれば7~8個含まれている事になります。 このマススペクトルを測定したのは質量分解能約20,000の高分解能質量分析計であり、ロックマスは使用していませんが、まずまずの質量確度は得られています。その事は、前のブログにも書いたフタル酸ビス(2-エチルヘキシル)のプロトン付加分子がm/z 391.2865に観測されている事で分かります。このイオンの計算精密質量は391.2843ですから、実測値との誤差は0.0022 Da(

質量分析屋の髙橋です。前回に引き続き、LC/MSで観測されるバックグランドイオンについて紹介します。前回は正イオンの例でしたが、今回は負イオンの例です。負イオン検出のESIやAPCIで、m/z 255や283のイオンを見た事はないでしょうか?前者はパルミチン酸(C16H32O2、モノアイソトピック質量256.240234 Da)、後者はステアリン酸(C18H36O2、モノアイソトピック質量284.271515 Da)の[M-H]-です。それぞれの[M-H]-の精密質量は、255.23293、283.26422となります。また、二重結合が1つ入ったm/z 253や281イオンが観測される事もあります。下の図は、m/z 255, 283イオンが観測されている負イオン検出でのLC/MSのバックグランドマススペクトルです。 これらのバックグランドイオンは、移動相溶媒(有機溶媒側)にメタノールを使った時に観測され易いようです。個人的な推測ですが、メタノールに(HPLCグレードやLC/MSグレードにおいても)僅かに含まれているのではないかと考えています。 日本電子に居た時に、HPLCグレードのメタノールをGC/MSで測定した事であります。パルミチン酸メチルとステアリン酸メチルが検出されました。メタノールに微量に存在するパルミチン酸とステアリン酸および主成分のメタノールが、GCのインジェクターで加熱されることによってエステル化反応を起こし、パルミチン酸メチルとステアリン酸メチルが生成し、それらが検出されたのだと推測しました。 LC/MSで観測されるバックグランドイオンは敬遠される傾向がありますが、私個人としては、強度がそれ程高くなければ、安定して観測されるバックグランドイオンはむしろ歓迎します。質量分析計の質量校正が正しく行われているか否かの指標になるし、TOF-MSの

質量分析屋の髙橋です。今回から数回にわたって、LC/MSで頻繁に観測されるバックグランドイオンについて解説します。 最初は、LC/MSに携わる多くの人が知っていると思いますが、フタル酸エステル由来のイオンです。フタル酸エステルは、プラスチックに可塑剤として含まれており、それが移動相溶媒等で微量に溶解されて、正イオン検出でバックグランドイオンとして観測されます。負イオンとして検出される事はありません。代表例は以下です。 ・m/z 391:di-2-ethylhexyl phthalateの[M+H]+ ・m/z 413:di-2-ethylhexyl phthalateの[M+Na]+ ・m/z 279:di-butyl phthalateの[M+H]+ ・m/z 301:di-butyl phthalateの[M+Na]+  m/z 279, 301は、m/z 391, 413に比べると、観測される頻度や環境は少ないように思います。また、[M+Na]+はESIでは観測されますが、APCIでは観測されません。 LC/MSにおいては、試料の前処理に使う容器なども含め、周辺にプラスチック製品が多数使われるため、この種のバックグラウンドイオンが観測されるのは避けられないと考えた方が良いです。バックグランドイオンが多数、高強度で観測されると、定性分析ではマススペクトルの解析の妨害になり得るし、定量分析ではS/Nを低下させる原因になるなど、データの質の悪化に繋がります。バックグランドイオンを消す、あるいは強度を低下させることが出来れば、それに越したことはありません。しかし、今回紹介したイオン達は、先ず消える事はないので、むしろ積極的に利用する事をお勧めします。 高分解能のLC/MS装置を使用していれば、観測されているこれらのイオンのm/z値と理論値を比

こんにちは。質量分析屋の髙橋です。お仕事で質量分析に携わっている皆さんは、マスディフェクト値と言う用語を知っていますか。マスディフェクト値とは、日本質量分析学会が発刊しているマススペクトロメトリー関係用語集では、“ノミナル質量からモノアイソトピック質量を差し引いた値”と定義されています1)。   例えばベンゼン(C6H6)では、ノミナル質量は78、モノアイソトピック質量は78.04695ですから、マスディフェクトは-0.04695となります。また、同じ芳香族化合物であるアントラセン(C10H14)の場合、ノミナル質量は178、モノアイソトピック質量は178.07825ですから、マスディフェクトは-0.07825となります。つまり、当然ですがモノアイソトピック質量の小数点以下の数値が大きいほど、マスディフェクト値は小さくなります。 通常の有機化合物の主な構成元素は、C, H, N, O, P, S, Clなどであり、CとHを中心としてそれ以外の元素が含まれる場合が多いと思います。それぞれの主同位体の精密質量は、12.000…, 1.007825, 14.003074, 15.994914, 30.973761, 31.972071, 34.968852であり、整数で近似した質量(質量数)より大きい原子はHとNのみです。有機化合物の構造を炭化水素を中心に考えると、分子が大きくなるほどマスディフェクト値は小さくなり、O, P, S, Clなどの元素が含まれてくるとマスディフェクト値は少し大きくなります。 図1は、縦軸に-マスディフェクト値、横軸に分子の質量をとったグラフです。マスディフェクト値に-を掛ける事で小数点以下の数値を表す事になります。分子量500程度の飽和炭化水素、リン脂質、ペプチドの例を●で示しましたが、同様な化合物の場合、分子量が小さくなると小数点以下の数値

LC/MS/MSによるプロダクトイオン分析で対象となる偶数電子イオンのフラグメンテーションの3回目、今回はマスシフトを伴う例について解説します。偶数電子イオンのフラグメンテーションにおけるマスシフトについてはまた別の機会に紹介しますが、直ぐに知りたい方は、故中田尚男先生が論文にまとめられていますので1, 2)、そちらを読んでください。前回に続き、アルギニンのプロトン付加分子([M+H]+)のプロダクトイオンスペクトル(図1)から、典型的な例を示して解説します。   フラグメンテーションに関する基本的な考え方の一つに、¨フラグメントイオンと脱離する中性フラグメントは、両方とも有機化学的に安定な構造である¨、という事があります。今回の解説は、その事が特に重要になります。 図1で観測されているm/z 116, 0699イオンとm/z 60, 0551イオンとの生成について、推定フラグメンテーションを図2に示します。 図2 mz 175イオンからmz 116イオンとmz60イオンへの推定フラグメンテーション 第2回目の記事と同様、イオン化の際にプロトンが付加するのは2つの1級アミノ基のどちらかですが、低エネルギーCIDによって励起状態になった際にプロトンが移動し、グアニジル基の根元の窒素に移ったとき、このフラグメンテーションが起こると考えられます。正電荷に対して隣のC-N結合の電子が2つとも動くと、炭素は電子を1つ失った状態になるため、正電荷をもちm/z 116イオンが生成します。このイオンはそのままの構造で安定であるため、マスシフトは±0です。これは、以前の記事に書いたアンモニア脱離と水脱離によって生成するイオンと同じです。 一方、同じ結合の電子が1つだけ正電荷に向かって動くと、グアニジル基側が正電荷をもちます。しかし、これはラジカルカチオンで

質量分析屋の髙橋です。前回の記事に引き続き、LC/MS/MSによるプロダクトイオン分析で見られるフラグメンテーションについて解説します。今回は、偶数電子イオンのフラグメンテーション-2というタイトルにしていますが、恐らくは偶数電子イオンに特化したものではなく、LC/MS/MSで用いられる開裂法である低エネルギーCIDにおけるフラグメンテーションの考え方になります。   フラグメンテーションの基本的な考え方は、図1に示すポテンシャルエネルギー曲線によって説明できます。   図1 フラグメンテーションにおけるポテンシャルエネルギー曲線   あるイオンにCID等によってエネルギーが与えられる時、そのイオンの内部エネルギーが、イオンの中の結合が開裂する反応(フラグメンテーション)の活性化エネルギーを超えるとそのフラグメンテーションが起こります。低エネルギーCIDは、例えば四重極コリジョンセルを用いる場合、プリカーサーイオンは数eV~最大200 eV程度の運動エネルギーでHeやXeを充満したコリジョンセルに導入され、低いエネルギーで何度も衝突繰り返す事で徐々に内部エネルギーが上昇する。そして、最も低い活性化エネルギーを超えたところでそのフラグメンテーションが起こります。一つのイオンから複数のフラグメンテーションが起こり得るとき、低エネルギーでは最も低い活性化エネルギーのフラグメンテーションのみが起こり、それ以外のフラグメンテーションは基本的には起こり得ません。しかし、低分子化合物にしろペプチドにしろ、フラグメントイオンが1つしか生成しないという例は殆どありません。 前回も用いたアルギニンのプロトンが付加のプロダクトイオンスペクトルを図2に示します。   図2 アルギニンのプロトン付加分子のプロダクトイオンスペクトル   逐次反応によって複

質量分析屋の髙橋です。質量分析計特にGCやLCとのハイフネーション装置であるGC-MSやLC-MSは、現在定量分析に多く用いられています。しかし質量分析は、元々は定性分析のための機器分析法であり、そのためにはマススペクトル特にフラグメントイオンの解析は重要です。   電子イオン化(electron ionization)については 以前のブログに書きましたが、GC/MSに用いられているイオン化法であり、そのマススペクトルで観測されるフラグメントイオンの解析については、「有機マススペクトロメトリー入門」を始め幾つかの良書があります。また、EIで得られたマススペクトルは、NISTやWilleyなどの豊富なマススペクトルライブラリーによって、その解析の難易度は比較的低く感じられます。実際には、そんな事はないのですが...EIでは、気化した試料分子に熱電子を照射し、分子から電子が1つ脱離した分子イオンや、それが断片化したフラグメントイオンが観測されます。分子は中性状態で必ず偶数個の電子をもつため、分子イオンは奇数個の電子をもつ奇数電子イオンです。 一方、LC/MSに用いられているエレクトロスプレーイオン化(electrospray ionization, ESI)や大気圧化学イオン化(atmospheric puressure chemical ionization, APCI)で生成するイオンは、分子にプロトンやナトリウムイオンが付加した、あるいは電子からプロトンが脱離したイオンなどが主であり、これらは中性分子と同じ電子状態即ち偶数電子イオンです。偶数電子イオンは中性分子と同じ電子状態であるため安定で、定性分析のためにはMS/MS(プロダクトイオン分析)が用いられます。LC/MS/MSにおけるプロダクトイオン分析には、低エネルギー状態での衝突誘起解離(collision i

質量分析屋の髙橋です。以前書いたエレクトロスプレーイオン化(electrospray ionization, ESI)におけるイオン化抑制に関する記事について、「エネルギー供給を絶たれた帯電液滴」からのイオン生成プロセスが、イオン化抑制の原因になると言う解説をしました。今回はその続編、以前の解説を補足する記事を書いてみます。     山梨大学の平岡先生が開発された「探針エレクトロスプレー」という技術があります。そのイオン生成機構が、そのまま前回解説の補足になります。探針エレクトロスプレーは、英語ではprobe electrospray ionizationとなり、PESIと略されます。PESIについては、平岡先生の総説1)をご参照ください。ESIは、コンベンショナルからナノまで、サイズによって量は大きく変わりますが、キャピラリー先端部分では試料溶液は連続流体として供給されています。一方PESIは、探針の先端に試料溶液を付着させ高電圧を印加する事で、探針の先端に形成されたテイラーコーンから直接イオンが生成するイメージです。コンベンショナルESI、ナノESI、PESIの比較と、PESIに用いた探針先端のSEM画像を図1に示します。また、PESIの構造と動作の様子を図2に示します。 探針に付着する試料量は数pLと極微量であるため、試料に対して電圧(エネルギー)が供給される確率はコンベンショナルESIやナノESIに比べて極めて高く、テイラーコーンから生成する帯電液滴のサイズは極小さく電荷密度は非常に高くなります。そのため前述したように、帯電液滴を経ずに直接生成するイオンも存在すると考えられます。             PESIでは、通常のESIの様に試料溶液が供給し続けられる事がないため、高電圧を印加し続ける事により、試料溶液は帯電液滴となってあるい

質量分析屋の髙橋です。以前の投稿で、エレクトロスプレーイオン化(ESI)において起こるイオン化抑制について解説しました。  ESIで他のイオン化法に比べてイオン化抑制が顕著に起こるのは、エネルギー供給が絶たれた帯電液滴からのイオン生成プロセスに原因の一旦があります。   その解説の第二段を書くのを忘れていたのですが、その前に、ESI以外にもイオン化抑制現象が見られるイオン化がありますので、その事について書いておこうと思います。   それは、プロトン移動を伴うイオン化に共通して起こると考えられます。具体的には、化学イオン化(chemical ionization, CI)、高速原子衝撃(fast atom bombardment, FAB)イオン化、マトリックス支援レーザー脱離イオン化(matrix assisted laser desorption / ionization, MALDI)、大気圧化学イオン化(atmospheric pressure chemical ionization, APCI)などで起こり得ます。 それは、プロトン移動を伴うイオン化においては、プロトン親和力が支配的だからです。   上で挙げたイオン化(正イオン検出)において、分析種(A)と夾雑成分(M)が共存していて、Mのプロトン親和力がAよりも大きかったと仮定します。そうすると、プトロンはMに優先的に付加して[M+H]+イオンが生成し易い環境になり、結果としてAにプロトンが付加する確率が低くなる(Aのイオン化が抑制される)ことになります。  これが、プロトン移動を伴うイオン化におけるイオン化抑制です。負イオン検出で脱プロトン化分子が生成する時のイオン化抑制については、恐らく違うプロセスになると思いますが、それはまた別の機会に考えてみたいと思います。

質量分析屋の髙橋です。今回は、MS/MS(タンデム質量分析)の動作や用語その3、プリカーサーイオンスキャンについてです。プリカーサーイオンスキャンは、特定のプロダクトイオンを生成するプリカーサーイオンを検出するMS/MSの測定法です。   タンデム質量分析には、空間的タンデム質量分析と時間的タンデム質量分析があります。それぞれの方法に対応する装置として、前者はQqQ, QTOF, Q-Orbitrap、4セクターなど、後者はQITやFTICRなどがあります。今回のテーマであるプリカーサーイオンスキャンは、空間的タンデム質量分析で且つ、MS1, MS2共に電圧走査型の装置でのみ実施可能です。先に挙げた中では、QqQと4セクターが相当します。QqQを例に動作を説明します。 MS2は特定のm/zのイオンのみが通過できるように電圧を固定します。つまり、SIMの状態に設定します。そして、MS1はスキャンモードで動作させます。MS1は、設定したm/z範囲のイオンが小さい方から順番に全て通過し、qでCIDによって開裂してプロダクトイオンが生成します。その中にMS2を通過するイオンがあった場合、その時のMS1の電圧から通過していたプリカーサーイオンのm/z値が分かります。 Q-TOFやQ-Orbitrapでは何故プリカーサーイオンスキャンができないか? MS2が電圧走査(スキャン)型の質量分離部ではないからと言ってしまえばそれまでですが、MS/MSの動作を考えれば容易に理解できます。TOFとOrbitrapの共通点は、質量分離部に対して、イオンをパルスで打ち込む事です。Q-TOFやQ-OrbitrapのMS/MSで、プリカーサーイオンスキャンの動作が可能かどうか、ここで考えてみましょう。先ずQをスキャンしてイオンをm/zの小さい順に通過させ、q(コリジョンセル)でCIDによっ

質量分析屋の髙橋です。前回、MS/MSの種類を5つ挙げ、その中のプロダクトイオン分析について解説しました。プロダクトイオン分析は、未知化合物等の定性に用いられますが、今日は、プロダクトイオン分析と装置の動作原理は非常に似ていて、定量分析に用いられる選択反応モニタリング(selected reaction monitoring, SRM)について解説します。SRMは、分析現場においては、殆どはQqQ-MSを用いて行われる手法です。原理的には、Sector-MSやIT-MSにおいても実行可能です。ここでは、主にQqQ-MSによるSRMについて、その動作や用語について整理してみたいと思います。   SRMについて解説する前に、SIM(選択イオンモニタリング, selected ion monitoring)について確認しておきましょう。SIMは、Q-MSなどの電圧走査タイプの質量分析計において、主に定量分析に用いられる測定法です。Q-MSにおける印加電圧とイオンの安定振動領域の関係を図1に示します。   図1 Q-MSにおける電圧走査とイオンの安定振動領域 直流電圧と高周波電圧の比を一定に保ちながら、電圧走査線に沿って連続的に変化させると、イオンはm/zの小さい順に四重極を通過して検出器に到達し、マススペクトルとして記録されます。この電圧を連続的に走査する測定法を、スキャン測定と言います。一方、この電圧走査線に沿った変化を、連続的ではなく段階的に変化させ、特定のm/zのイオンのみQを通過させて検出する方法がSIMです。定量分析では何故SIMが用いられるか? それは、1つのイオンがQを通過し検出器に到達する時間を、スキャン測定よりも長く保つ事が出来、結果として多くのイオンを検出する事が出来るためです。 図1から分かる通り、Q-MSにおけるスキャン測定では、あるm/z

質量分析屋の髙橋です。今日は、LC/MSの定性(定量)分析に用いられる(LC/MSに限ったことではないが)、MS/MS(タンデム質量分析)について解説します。 MS/MSは、日本質量分析学会が発刊しているマススペクトロメトリー関係用語集によれば、以下の様に定義されています1)。 「一段目の質量分析においてプリカーサーイオン(前駆イオン)を選択し、イオンを解離させた後に二段目の質量分析でそのプロダクトイオンのm/z分離を行い検出する技法、およびそれらの結果を利用する研究分野。タンデム質量分析と同義語。   注1:技法には、プロダクトイオンスペクトル、プリカーサーイオンスペクトル、コンスタントニュートラルロススペクトル、コンスタントニュートラルマスゲインスペクトルを取得する手法、および選択反応モニタリングがある。 注2:二つ以上の質量分析部を備えた装置を用いる空間的タンデム質量分析(tandem mass spectrometry in space)およびイオントラップタイプの装置を用いる時間的タンデム質量分析(tandem in time)がある。」 プロダクトイオンスペクトルを取得する方法は、プロダクトイオン分析あるいはプロダクトイオンスキャンと言い、注1に記載した複数の技法を含め、最も汎用されている。その理由は以下の2つであろう。 1. タンデム質量分析計には複数の種類があるが、プロダクトイオンスペクトルは、全ての装置で取得可能である事。 2. プロダクトイオンスペクトルを取得する測定法が、定性・定量分析の両方に有用である事。 ここでは、プロダクトイオンスペクトルを取得する方法に注目して、用語や動作などを整理してみたいと思います。この方法は、例えば三連四重極質量分析計(QqQ-MS)で測定する場合、Q1で特定のm/z値のプリカーサーイオンを選択して、q2の

質量分析屋の高橋です。暫く投稿をサボってしまい、大変失礼しました。今回は、LC/MSやGC/MSにおいて、マススペクトルを取得するモードで測定した時に得られるクロマトグラムの種類について説明します。 添付した図は、上から(a)TICC, (b)BPIC, (c)高強度のバックを除いたm/z範囲で作成したクロマトグラム、(d)ある成分イオンのm/z値を設定した抽出イオンクロマトグラム、を示しています。試料は天然物の抽出液です。     ・TICC:全イオン電流クロマトグラム(total ion current chromatogram)  少し前まではTIC(全イオンクロマトグラム、total ion chromatogram)と呼んでいましたが、2013年質量分析関連用語についてのIUPAC勧告に基づき、日本質量分析学会は用語集を改定し、全イオン電流クロマトグラムと呼ぶようになりました。TICは、測定するマススペクトル上に観測される全イオン強度の和を、時間軸に対してプロットした二次元チャートと言う定義でした。しかし、この二次元チャートの縦軸は、イオンの強度を直接プロットしている訳ではなく、イオンが検出部によって変換された後の電流値をプロットしているため、ionとchromatogramの間に電流(current)が入ったと言う経緯があります。マススペクトルを取得するm/z範囲の下限値を小さく設定し過ぎると、バックグランドイオン強度が増加するため、TICCのS/Nが低くなり、TICC上でピークが確認し難くなります。 GC/MSの場合、強度の高いバックグランドイオンは、H2O由来のm/z 18、N2由来のm/z 28、O2由来の32などが主であるため、マススペクトルの取得m/z範囲を35からに設定すると、S/Nの良いTICCが得られます。m/z 50~の設定にする

質量分析屋の高橋です。以前のブログで、イオン導入細孔の設定電圧とマススペクトルパターンの変化について書きました。イオン導入細孔は、ESIやAPCIなどの大気圧イオン源において、大気圧で生成したイオンが真空領域に入っていく時に最初に通過する細孔です。図1をご参照下さい。       メーカーによって名称は異なり、cone, orifice, transfer tube, heated capillaryなどと呼ばれています。その後に続く差動排気部にイオンを送り込むために、数十V程度の電圧が印加されています。その電圧を高く設定すると、細孔を通過した後にイオンが残存ガスと衝突してフラグメンテーションを起こす(In-source fragmentation)ことは、以前のブログに書きました。  その際、付加イオンの強度比が変化するのですが、今日はそのことについて書いておきます。WatersのQTOF-MS(Synapt G2-XS)でConeの電圧を30 V, 50 V, 70 Vに設定した時の、ロイシン・エンケファリンのプロトン付加分子([M+H]+)付近のm/z領域のマススペクトルを図2にしまします。   このブログにも書いた通り、ロイシン・エンケファリンの[M+H]+(m/z 556)は30 Vの時に最大強度を示し、電圧を上げると共に強度は減少し、フラグメントイオンが生成します。この時、付加イオンは[M+H]+に対して[M+Na]+と[M+K]+が相対的に増加しています。NaイオンやKイオンが付加する事でイオンの構造が安定化するために、高いCone電圧の時に相対強度が大きくなると言う現象が起こります。  例えば通常の条件設定でLC/MSを行い、未知成分のマススペクトルで顕著なピークが1本しか観測されずにイオン種が決定できないような時、この電圧を高めに設

質量分析屋の高橋です。  前回、LC-MSに用いられているESIやAPCIのイオン源において、イオン取導入細孔の電圧設定について解説する記事を書きました。  今回はその続き、”この電圧を変えると具体的にどうなるか?”を具体例を挙げて解説したいと思います。      Waters社のSYNAPT G2-Sを用いて、ペプチドの一種であるロイシン・エンケファリン(C28H37N5O7、モノアイソトピック質量 555.2693)を測定した例です。正イオン検出のESIで測定すると、溶媒条件によっても異なりますが、m/z 556([M+H]+)が主に検出されます。イオン導入細孔(cone)電圧を30 V, 50 V, 70 Vに設定した時のマススペクトルを図1に示します。    図1 イオン導入細孔(cone)電圧と[M+H]+強度、マススペクトルパターンの関係       m/z 556イオン強度は、cone電圧を30 Vに設定した時に最高値を示しました。データには示していませんが、これより低い電圧では、同イオン強度も低い値を示しました。そして、30 Vよりも高い値(50 V, 70 V)に設定すると、 m/z 556イオンよりも小さな m/z 領域にイオンが観測されるようになりました。これらは、 m/z 556イオンが断片化して生成したフラグメントイオンです。この現象は、In-source CIDと呼ばれています。CIDは、collision-induced dissociationの略で、日本語では衝突誘起解離と言います。イオンがHeやN2などの不活性ガスと衝突する事で、内部エネルギーが上昇して断片化を起こす現象です。ESIのイオン源の一例を図2に示します。         イオン導入細孔に印加する電圧は、その後段にイオンを送り込む役割を果たします

質量分析屋の高橋です。お仕事でLC-MSをお使いの方で、イオン導入細孔の電圧設定を意識しておられる方はどれ位いらっしゃるでしょうか?イオン導入細孔は、ESIやAPCIなどの大気圧イオン源において、大気圧で生成したイオンが真空領域に入っていく時に最初に通過する細孔です。      図1 ESIソースの概略図   図1をご参照下さい。   メーカーによって名称は異なり、cone, orifice, transfer tube, heated capillaryなどと呼ばれています。その後に続く差動排気部にイオンを送り込むために、数十V程度の電圧が印加されています。イオンを後ろから押す所謂リペラー電圧的な役割を果たしますが、その電圧の最適値は、イオンのm/zに依存します。その依存性というかイオンのm/zによってどの程度最適電圧が違うかは、メーカーや機種によって異なります。メーカーや機種毎にデフォルトの設定値があり、多くの化合物はデフォルト設定値のまま測定してもそこそこのシグナル強度が得られますが、極端に分子量が小さい、あるいは大きい化合物については、そのイオンを通すための最適値がデフォルト値から大きく外れる事もあります。 最近の多くの装置では、このイオン導入細孔を含め、複数の関連するパラメーターをオートチューニングできる機構が備わっていますが、その際にチューニングの対象とするイオンのm/zを設定できるようになっていると思います。 オートチューニングを使っても勿論良いですが、オートチューニングを使うまでもなく、この電圧をちょっと変えるだけでシグナル強度が劇的に変わる場合があります。より良いLC/MS分析のために、この辺りも一寸意識して使ってみて下さい。  

 こんにちは。質量分析屋の髙橋です。2020年最初の話題です。お仕事で質量分析に携わっている皆さんは、マスディフェクト値と言う用語を知っていますか。 マスディフェクト値とは、日本質量分析学会が発刊しているマススペクトロメトリー関係用語集では、“ノミナル質量からモノアイソトピック質量を差し引いた値”と定義されています1)。     例えばベンゼン(C6H6)では、ノミナル質量は78、モノアイソトピック質量は78.04695ですから、マスディフェクトは-0.04695となります。また、同じ芳香族化合物であるアントラセン(C10H14)の場合、ノミナル質量は178、モノアイソトピック質量は178.07825ですから、マスディフェクトは-0.07825となります。つまり、当然ですがモノアイソトピック質量の小数点以下の数値が大きいほど、マスディフェクト値は小さくなります。通常の有機化合物の主な構成元素は、C, H, N, O, P, S, Clなどであり、CとHを中心としてそれ以外の元素が含まれる場合が多いと思います。それぞれの主同位体の精密質量は、12.000…, 1.007825, 14.003074, 15.994914, 30.973761, 31.972071, 34.968852であり、整数で近似した質量(質量数)より大きい原子はHとNのみです。有機化合物の構造を炭化水素を中心に考えると、分子が大きくなるほどマスディフェクト値は小さくなり、O, P, S, Clなどの元素が含まれてくるとマスディフェクト値は少し大きくなります。図1は、縦軸に-マスディフェクト値、横軸に分子の質量をとったグラフです。マスディフェクト値に-を掛ける事で小数点以下の数値を表す事になります。分子量500程度の飽和炭化水素、リン脂質、ペプチドの例を●で示しましたが、同様な化合物の場合、分子量

こんにちは。質量分析屋の髙橋です。LC-MSを用いて何かの試料を分析する際、試料をLCカラムで分離させずに直接試料をMSに導入する方法には、インフュージョンとフローインジェクションの2種類が用いられます。インフュージョンは、試料溶液をシリンジポンプによって連続的にMSに導入する方法で、マスキャリブレーションを行う時はこの試料導入法が用いられます。   フローインジェクションは、装置としてはLC-MSそのままですが、カラムを外してその替わりにユニオンを接続し、インジェクターから試料を注入します。試料成分がカラムで分離されませんので、試料が混合物であればそのまま混合物の状態でMSに導入されます。両方法で得られるデータのイメージは以下の様になります。 インフュージョンでは、試料溶液が連続的に一定流量でMSに導入されるため、測定時間中シグナル強度はほぼ一定で、測定時間の何処でマススペクトルを取得しても殆ど同じパターンになります。 フローインジェクションでは、溶媒の流れの中に試料が注入されるため、シグナル強度は変化を伴い、ピークが現れます。カラムを用いていないため、ピークが現れる時間は数秒程度になります(流している溶媒の流量と配管容量に依存)。また、多くの場合テーリングしたようなピーク形状になります。   インフュージョンとフローインジェクションのデータイメージ   どちらの方法も、初めて測定する試料に対して、LC/MSで測定可能か?(ESIやAPCIでイオン化するか?)をザクッと確認したいときに用います。或いは、購入した標準試薬をそのまま測定する時や、単離精製された化合物のマススペクトルを確認する時にも用いられます。インフュージョンについては、ある一定時間常に試料のマススぺクトルを観察出来るので、イオン源パラメーター等の条件の最適化を行う時や、分析種のイオンが観測

質量分析屋の髙橋です!今回から、質量分析計本体について、色々と書いてみたいと思います。現在最も普及している質量分析計は、GC/MS, LC/MS, その他全て合わせても、四重極質量分析計(quadrupole mass spectrometer, Q-MS)でしょう。Q-MSの動作原理は、様々な書籍で紹介されているのでご存知の方が多いと思いますが、簡単に解説します。   図1にQ-MSの概念図、図2に質量(m/z)分離の原理を示します。        図1 Q-MSの概念図    図2 Q-MSにおけるm/z分離の原理 図1に示すように、4本の電極のそれぞれ対角線の対の2電極に対して同極性の直流電圧と高周波電圧を印可し、周期的に極性を変化させることで、イオンは4本の電極内に閉じ込められ、イオン源から検出器までを振動しながら飛行します。図2に示されている三角形様の図は、安定領域と言って、直流電圧と高周波電圧の大きさにおいて、どの位の電圧の時にどの大きさのm/zのイオンが安定に四重極内に存在出来るかを示しています。安定振動領域にあるイオンは検出器へ到達し、安定振動領域にないイオンは途中で四重極外へ排出されます。また図2に示すように、直流電圧と高周波電圧の比が一定になるように電圧を変化させることで、イオンのm/z を分離する事が出来ます。 ここで、図2に示した両電圧を、走査直線上に小さな電圧から大きな電圧に連続的に変化させると、小さなm/zのイオンから順番に四重極を通過して検出器に到達し、マススペクトルが得られます。電圧を連続的に変化させる事を走査(スキャン)と言います。 一方、GC/MSやLC/MSで定量分析を行う場合、選択イオンモニタリング(selected ion monitoring, SIM)と言う測定法が用いられます。これは、特定のm/z値の

 こんにちは。質量分析屋の髙橋です。LC/MSでは様々なバックグランドイオンが観測されます。正イオンESIで、m/z 391や413のバックグランドイオンを見た事がある人は多いと思います。この2つのイオンは、同じ物質由来です。正体は、フタル酸ビス(2-エチルヘキシル)です。通称DOP。分子式はC24H38O4、ノミナル質量は390、モノアイソトピック質量は390.2770です。   前述のm/z 391は、DOPのプロトン付加分子([M+H]+)、m/z 413はナトリウム付加イオン([M+Na]+)です。    DOPは可塑剤として用いられており、LC/MSにおいても、使用する容器などに含まれていると考えられます。    この両イオンをはじめとして、LC/MSで余りにも沢山のバックグラウンドイオンが高強度で観測される状況は好ましくありません。と言って、バックグランドイオンを完全にゼロにする事は不可能です。このブログで書いた様な状況は避けなければなりませんが、重要な事は、“気を付けつつも気にし過ぎない”だと思います。   私自身は、DOPのイオンは、装置のキャリブレーションの指標として積極的に使っています。私の仕事では、高分解能LC/MSを使う事が多いので、キャリブレーションはとても重要です。とは言え、無条件に毎回使う度にキャリブレーションするのではなく、今この装置がキャリブレーションを必要としている状況なのか否かを、DOPの様な既知のバックグランドイオンを見て判断しています。前述のDOPの分子式から、プロトン付加分子とナトリウム付加イオンの計算精密質量は、それぞれ391.2843, 413.2662となります。キャリブレーションする前の装置で、“両イオンの実測m/z値が計算値とどれ位ズレているか”で、その装置のキャリブレーションの必要性が判断できます。

こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。LC/MSで汎用的に用いられているイオン化法はESIですが、ESIの大きな問題はマトリックス効果特にイオン化抑制が起こり易い事です。ここでは、、“ESIでイオン化抑制が何故起こるのか”について解説したいと思います。因みに、この内容の多くは、山梨大学の平岡先生から教えて頂いたことです。     前述した様に、ESIでは夾雑成分の共存によって分析種のイオン化が抑制(あるいは促進)される“マトリックス効果”という現象が頻繁に起こります。生体試料を測定するメタボロミクスなどの研究分野においては、特に問題になっています。イオン化抑制の原因になる物質には様々なものがありますが、中でも血漿試料に含まれるリン脂質や試料調製過程でコンタミしてしまう(と考えられる)ポリエチレングリコールなど界面活性作用をもつ物質は、マトリックス効果を示す代表例です。 ESIでは、図1に示すように、キャピラリー先端部の液体の塊から、静電的な引力によってイオンが液滴として引きちぎられることによって帯電液滴となり、脱溶媒⇒液滴の分裂⇒イオンエバポレーションを経て、気相イオンが生成します。 図1    ESIにおけるイオン生成の様子 この時、帯電液滴の電荷密度と液滴の大きさはキャピラリー先端の内径、液体の流量、および液滴の生成を補助する外力(ネブライザーガス)の有無に依存します。即ち、キャピラリー先端の内径が小さく、液体の流量が少なく、ネブライザーガスを使わない条件では電荷密度の高い小さな液滴が生成し、キャピラリー先端の内径が大きく、液体の流量が多く、ネブライザーガスを使う条件では電荷密度の低い大きな液滴が生成します。マトリックス効果は、帯電液滴の電荷密度が低い程受けやすく、それはエネルギー供給が絶たれた状態の帯電液滴から、時間をかけて脱溶媒⇒液滴の分裂⇒イオンエバポ

こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。プロテオミクスの研究者の中には、LC/MS/MSのData Dependent Acquisition(DDA)の機能を使ってプロダクトイオンを取得し、タンパク質の同定を行っている方が沢山いらっしゃると思います。分子量にも依りますが、ペプチドの多くはESIにおいて多価イオンを生成するために、DDAの設定で“多価イオンのみをプリカーサーイオンとして選択する”機能を使う場合が殆どです。   この機能は、高分解能質量分析計で用いられる場合が多く、多価イオンであるか否かをシステムが認識するのは、同位体ピークの分離挙動だと推測されます。即ち、図1に示すように同位体ピークのm/z間隔が、1価イオンは1、2価イオンは1/2、3価イオンは1/3になる事に依るものです。              図1 イオンの価数と同位体分離挙動     ここで、ESIでは試料成分の濃度が高い時、クラスターイオンが生成される事が知られています。そして問題になるのが、クラスターイオンの多価イオンも生成される事があると言うことです。 例えばペプチド混合物の中に、ノミナル質量500と言う低分子化合物が大量に含まれていて、イオン化されたとします。ここで、図2(a)に示す様にプロトン付加分子のみが観測されれば、全く問題はありません。しかし、図2(b)のように、2量体の2価イオンが1価イオンに重なって観測されると、システムはこのイオンをノミナル質量1,000の化合物の2価イオンであると誤認識してしまい、プロダクトイオンスペクトルを測定してしまいます。   図2(a)1価イオンの同位体分離パターン、(b)二量体の2価イオンが混ざったパターン    通常の低分子化合物の2量体の2価イオンからのプロダクトイオンスペクトルは、ペプチドとは似ても似つかないパターンになると

こんにちは。質量分析屋の髙橋です。前回投稿した“LC/MSにおける試料調製や前処理で重要なポイント”について、この記事の後半で描いている“ブランク試料のTICクロマトグラムで観測されたピークは、必ずしもブランク試料由来ではない可能性がある”について、今回は他の可能性を考えて見たいと思います。経験上、二つの可能性があると思います。   1.試料導入系の汚染オートインジェクターやマニュアルインジェクターなどの試料導入系が、以前測定した試料によって汚染されている場合、それが試料注入の度に混入し、あたかも試料に含まれていたかの様な挙動を示します。 2.LCの水系溶離液の汚染LC/MSに用いられるLCの8割以上は、逆相分配クロマトグラフィーです。そして、その多くはグラジエント溶離が用いられます。2の可能性は、逆相でグラジエント溶離を行う場合に特に起こり易いです。この条件では、グラジエントの初期状態は水系溶媒がリッチで、カラムの平衡化を行って試料を注入します。水系溶離液が汚染されていると、平衡化の間に溶離液中の成分がカラム先端にトラップされ、グラジエント溶離によってそれが溶出されてきます。そして、その成分があたかも試料中に含まれていたかの様に振舞います。夾雑ピークの原因物質が“ブランク試料に含まれている”か“試料導入系の汚染”か“LCの水系溶離液の汚染”か、を見極める方法は以下です。   a. ブランク試料の注入量を変えて見る注入量を変えて夾雑ピークの強度が変わればブランク試料由来、変わらなければ“試料導入系の汚染”か“LCの水系溶離液の汚染”が原因です。 b. 試料を注入せずグラジエントプログラムだけ走らせて見るこれはLCシステムによっては出来ない場合がありますが、もし可能であれば、これをやってみて夾雑ピークが出現すれば“LCの水系溶離液の汚染”が原因である可能性が高いで

こんにちは。質量分析屋の髙橋です。LC/MSにおける試料調製や前処理として何をするか?は、試料の内容によって異なります。“溶解”、“ろ過”、“遠心分離”、“固相抽出”、“溶媒抽出”、“除タンパク”、などなど。LC/MSに供される試料は液体ですから、何等かの溶媒は必ずと言っていい程頻繁に使います。そして、溶媒を扱う時のピペッターや容器。   これらは、前処理の内容に関係なく必須であると考えてよいでしょう。そしてLC/MSにおける試料調製や前処理で重要なポイントの1つは、操作に用いるこれら溶媒や容器類を使ったブランク試料を準備することです。 例えば、“固体試料を遠沈管に計りとり、超純水をピペッターで加えて溶解し遠心分離、上清をピペッターを使って吸い取り、オートサンプラーバイアルに移してキャップをする”という試料調製をするとします。ここで使うのは、遠沈管、超純水、ピペッター、オートサンプラーバイアル、キャップです。試料を使わずにこの操作を行い、ブランク試料を調製します。ここで、ブランク試料は、分析試料と同時に調製する必要があります。 先ず、ブランク試料の必要性についてですが、試料以外の夾雑成分を試料成分と区別することに他なりません。上記の方法で、ある試料を調製し、LC/MS分析したら以下のTICクロマトグラムが得られたとします。 分析試料のTICクロマトグラム そして、ブランク試料を測定して得られたTICクロマトグラムが以下だとします。 ブランク試料のTICクロマトグラム ブランク試料のTICクロマトグラムで観測されている星印の2ピークは、分析試料のTICクロマトグラムにも観測されており、これらはブランク試料由来の夾雑成分である可能性があり、即ち試料由来の成分ではないということになります。ここで、もしブランク試料を測定しなければ、夾雑成分含めて全て試料由来

こんにちは。質量分析屋の髙橋です。LC/MSのイオン化法として代表的な2法、エレクトロスプレーイオン化法(electrospray ionization, ESI)と大気圧化学イオン化法(atmospheric pressure chemical ionization, APCI)、以下の図のような基準での使い分けが一般的です。     中~高極性化合物はESI、低~中極性化合物はAPCI、概ね正しいですし、ファーストチョイスとしては良い指標だと思います。しかし実際には、多くの人が描いているイメージより、ESIもAPCIも沢山の化合物をイオン化出来ます。また、移動相溶媒(インフュージョンによる連続導入の場合は試料溶媒)についても、ESIには極性溶媒が必須であると思われがちですが、必ずしもそうではありません。流石にヘキサン100%でESIによる測定は難しいですが、ジクロロメタン、クロロホルム、ベンゼン、トルエンなどは100%でもESIに使えます。また、そのような溶媒にのみ溶解する化合物(極性溶媒に不溶)は、イオン化効率は高くはありませんが、ESIでイオン化するものが結構あります。 低極性溶媒をESIに使用する場合、例えばそれがLCの溶離液であれば、ポストカラムから溶離液および分析種が溶解する程度の極性溶媒を添加する方法が一般的ですが、極性溶媒(水酸基に対して反応性をもつ化合物など)によって分解してしまう化合物もあるので、そのような方法を用いる事が出来ない場合があります。 多環芳香族化合物やある種の金属錯体などは良い例だと思います。多環芳香族化合物は、ベンゼン、ナフタレン、アントラセン辺りの低分子ではESIで殆どイオン化しませんが、例えばこんな構造であればESIで[M+H]+が観測されます。 また、金属錯体など熱的に不安定な構造をもつ化合物の場合、ESIの脱溶

 こんにちは。質量分析屋の髙橋です。これまで、“質量分析計による測定の基本はイオン化にある”というテーマで種々のイオン化について書いてきました。今回から複数回にわたって、現在LC/MSで汎用的に用いられているエレクトロスプレーイオン化(electrospray ionizatio, ESI)について書いてみます。ESIの開発によって、LC-MSは実用的な装置になりましたが、エレクトロスプレー(ES)イオン源が最初からLC-MSに用いられていた訳ではありません。   今回は、私の知る限りという限定付きですが、ESイオン源に関する変遷について書いてみたいと思います。 市販のESイオン源を最初に開発したのは、Analytica of Branford(AB)という会社でした。1990年代の中頃のことだったと思います。当時、質量分析計の主なメーカーは、LC-MSのイオン源としてサーモスプレーをもっていました。 AB社は所謂サードパーティーで、各質量分析計メーカーにESイオン源を供給していました。初期のESイオン源の構造を図1に示します(詳細は正確ではないかも)。   図1 初期のESイオン源 ESは、高電界の作用で帯電液滴を生成させる技術ですが、液体の連続流から安定的に帯電液滴を生成させるには、液体の流量に制限があります。その流量は、概ね<5 µL/minです。1990年代中頃、LCで用いられていた移動相流量は1 mL/minが主であったため、LCをESI-MSに直結することは不可能でした。そもそも、当時のESイオン源で生成されるイオンは非常に不安定で、綺麗なマススペクトルを得るためには、最低1分間程度はシグナルを積算させる必要がありました。クロマトグラムのピーク幅を考えると、LCとの接続が不可能だったことが容易に分かると思います。 イオン生成が不安定だった主な

 こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。ここしばらく、イオン化法について解説を書いてきましたが、今回はマススペクトル取得モードについて書いてみたいと思います。質量分析計をお使いの皆さんは、マススペクトル取得モードについて意識されたことはあるでしょうか?     マススペクトルの取得モードは、大きく分けて二つ。ProfileモードとBarモードです。ただし、メーカーや機種によって、名称は異なる場合があります。Profileモードでは、所謂生データの状態でのマススぺクトルが得られます。一方、Barモードでは、Profileモードで保存されたマススペクトルの全てのピークを棒状に変換した状態でマススペクトルが得られます。   私達が通常目にするマススペクトルの横軸はm/z(mはイオンの質量を統一原子質量単位で割った値、zは電荷数)ですが、質量分析計が実際に計測しているのは、飛行時間質量分析計であれば飛行時間、四重極質量分析計であれば電圧です。何れの場合においても、マススペクトルの取得には一定の時間を要するため、m/z軸は、元々は時間軸であると考えることが出来ます。ある時間間隔において検出器で検出したイオン量(電流量)を時間軸に対してプロットし、横軸を、m/zに変換したチャートがマススペクトルです。     図1はProfileモードで取得したマススペクトルのイメージですが、m/z軸に対して一定間隔のデータポイントをもっています。 Profileモードのマススペクトルに対して、ノイズを除去するための閾値やピーク幅などの条件を設定してピークを検出し、ピークトップや重心をピークの位置として棒グラフに変換したチャートが、図2に示すBarモードのマススペクトルです。測定条件において、マススペクトル取得をBarモードに設定していても、データ処理システム内部では、一旦Profile

こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。 以前から何度か書いていますが、質量分析計による測定の基本は、第一に化合物に適したイオン化を選択することです。  揮発性(加熱して気化する性質)化合物に適したイオン化として、先ずは電子イオン化(electron ionization, EI)、そしてEIでは分子イオン(分子から電子が1つ取れたイオン)が得られず、分子内の結合が切れて断片化イオン(フラグメントイオン)が観測されてしまう場合には化学イオン化(chemical ionization, CI)が有効であると解説しました。   通常、市販されている質量分析計で、揮発性化合物に有効なのはこの2つのイオン化法ですが、今回はそれ以外の方法として、イオンアタッチメント(ion attachment, IA)を紹介します。IAは、気相分子に金属イオン(Li+)を付加させることで、フラグメントフリーのイオンが観測されるイオン化法です。以下は、IAの参考になるURLです。 以前は、キャノンアネルバで事業化していましたが、数年前に止めてしまいました。キャノンアネルバはIA部分を開発しており、質量分析計に日本電子の四重極質量分析計を採用して、コラボしていました。そして、キャノンアネルバのIA-MAのアプリケーション担当者が、群馬大学工学部の同期の女性で、当時私は日本電子に居ましたが、同じ業界に大学の同期がいた事にとても驚きました! 私自身、IAは使ったことがないのですが、イオン化としてはアンモニアを試薬ガスに使うCIに近いのかなぁと思います。CIでは、主としてイオン化した試薬ガス(試薬イオン)から気化した分析種分子にプロトンが移動してプロトン付加分子([M+H]+)が生成し、IAはリチウムイオンが気化した分析種分子に付加してリチウムイオン付加分子([M+Li]+)が生成します。CIでプロトン

こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。2018年も引き続き宜しくお願いします。今年最初の記事は前回の続き、FABイオン化を用いたLC-MSインターフェースであるFrit-FABについて書いてみます。Frit-FAについては、以下の3つのブログでかなり詳しく書いています。   ESIとFABの比較-3  Frit-FABのあれこれ-1  Frit-FABのあれこれ-2  ここでは、Frit-FABに関するまとめと、この3つのブログには余り詳しく書かなかった“スタティックFAB”と“ダイナミックFAB”の違い、および、そこから派生するダイナミックFABのメリットについて書いてみます。ここで、スタティックFABとは前回解説した通常のFABのこと、ダイナミックFABとはFrit-FABのことです。 以前のブログにも書いていますが、FABを使える装置は最近ではめっきり少なくなっていて、現在日本で稼働している質量分析計の1%にも満たないと思います。ましてやFrit-FABは、FABが使える装置の中の更に数%程度でしょう。 そんな、現在質量分析計を使って仕事をしている人が殆どお目にかかることがないような技術について何故書くのか? それは、使っている人、知っている人が少ないからこそ、よく知っている私が発信することで、最近の装置しか知らない人に知識だけでもFABやFrit-FABのことを知って欲しいという思いと、使っていない技術についても知識を得ることで、今の仕事に役立つことがあると思うからです。   通常のFABとFrit-FABの概略を図1~3に示します。   図1 FABイオン源の概略図とFABプローブの写真     図2  Frit-FAB LC-MSインターフェースの概略図     図3  Frit-FABプローブの写真と

こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。最近3回に亘ってイオン化について書いています。EI, CI, FDに続いて今回はFAB。質量分析はイオンを分析する方法なので、何か測定したい試料(その中の特定の成分)がある時、先ずはそれをイオン化しなければマススペクトルを得ることが出来ないので、質量分析の基本は、先ずはイオン化な訳です。   前回のFDと今回のFAB、今質量分析計を使っている人の中で、この2つのイオン化を知っている人あるいは実際に使っている人(使える環境にある人)はかなり少ないと思いますが、知識として知っていても損はないでしょう。私自身、前職である日本電子ではFABは頻繁に使っていましたが、最近では殆ど使うことがなくなりました。 FABはfast atom bombardmentの略、日本語では高速原子衝撃法です。 FABイオン化は、現在汎用的に使われているイオン化法の中では、MALDI(matrix assisted laser desorption ionization、マトリックス支援レーザー脱離イオン化)に似ています。イオン化促進剤としてマトリックスウを使うこと、真空中のイオン化であること、金属製のターゲットに試料とマトリックスを混合して塗布すること、の3点は共通しています。マトリックスに使用する化合物は異なりますが。  FABイオン源の概略図とFABターゲットの写真を以下に示します。              溶液状の試料とマトリックス(グリセリン、m-ニトロベンジルアルコール(NBA)など)をターゲット上で混合して真空下のイオン源に導入、高速のキセノン原子を衝突させて、スパッタリングによってイオンを生成させます。試料の分子は、正イオン検出では[M+H]+、負イオン検出では[M-H]-として主に観測され、[M+H]+や[M-H]-にマトリックス分子が付

こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。前々回、前回で、揮発性化合物の分析に有効なイオン化法として、EIとCIについて述べました。EIとCIは揮発性化合物に有効なので、通常GC/MSに用いられます。   このコラムはLC/MSが中心なのに何故GC/MSのイオン化について書くのか?   と思われる方がいらっしゃるかも知れませんが、その理由は2つです。 1つ目は、EIやCIがかつてはLC/MSのイオン化法として使われたことがあったこと。パーティクルビームというLC-MSインターフェースには、EIとCIが使われていました。2つ目は、EIは質量分析のイオン化の歴史の中でも最も歴史が深く、そもそもEIやCIが開発されたのはGC/MSが開発される前であるということです。質量分析における測定の基本はイオン化にありますから、質量分析を行うにあたり現存するイオン化法については一通り知っておく必要があると思います。   また、EIやCIは揮発性化合物に有効であると述べましたが、そもそも未知試料の場合、含有成分が揮発性か否かについては不明であることが殆どです。如何に多くのイオン化法について知識と経験をもっているか、あるイオン化法を用いて得られたマススペクトルから何を読み解くか、質量分析を極める上では非常に重要です。   難揮発性化合物の分析に有効なイオン化は幾つかありますが、その一つがFI/FDです。FI (Muller, 1953)はfield ionization(電解イオン化)、FD (Beckey, 1969)はfield desorption(電解脱離)の略で、論文レベルでの発表年にはかなりの隔たりがありますが、実用上は同じイオン源で扱われることが多いようです。   FDは、金属線に炭素やシリコンの髭(ひげ)状結晶“ウィスカー”を成長させて作製される“エミッター”に試料溶液を

こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。  質量分析計による測定の基本は、第一に化合物に適したイオン化を選択することです。もちろん、全てのイオン化が可能な質量分析計を所有しているケースは少ないので、選択すると言っても限界があるのが実態だと思います。それでも、イオン化の特徴と使用する際の注意点はしっかりと理解しておく必要があると思います。     前回は、電子イオン化(electron ionization, EI)について解説しました。GC/MSで標準的に使われるイオン化ですから、GC/MSと言えば先ずはEI! とりあえずそれ以外の選択肢はありませんが、問題はマススペクトルの解釈です。GC/MSでは注入口での、直接導入法では加熱気化段階での、試料分子の熱分解の可能性を考慮する必要があります。また、熱分解することなく気化したとして、イオン化の際に分子イオン(M+・)が生成せず、フラグメントイオンのみが生成する可能性があることを常に考える必要があります。     試料分子が熱分解せずに気化したとして、EIでのイオン化過程においてフラグメントイオンのみが生成している可能性を否定できず、分子質量を知る必要がある場合、EIの代わりに化学イオン化(chemical ionization, CI)を使うのが有効です。   CIは、イソブタンやメタン、アンモニアなどの気体(試薬ガス)をEIでイオン化して、生成したイオン(反応イオン)と気体状の試料分子とのプロトン移動によって試料分子をイオン化させる方法です。代表的なイオン化過程は以下です。    下図にCIに用いるイオン源のイメージを示します。電子線が照射されているイオン化室に試薬ガスを充満させ、そこに気化した試料分子を導入します。試薬ガスは、試料分子より大過剰に存在するために、電子線が直接試料分子に照射される確率は極め

こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。  “質量分析”は、日本質量分析学会のマススペクトロメトリー関係用語集によると以下のように定義されています1)。 「質量分析計(mass spectrometer)と質量分析器(mass spectrograph)、およびそれらの装置を用いて得られる結果に関するすべてを扱う科学の一分野。」  ピンと来ない部分もある定義ですが、要は“データの解釈”という部分にフォーカスされていて、“データを得る”という部分すなわち“測定”は含まれていないような印象を受けます。しかし、私は、“測定”の部分も当然“質量分析”に含まれて然るべきだと考えます。      “質量分析”の基礎・基本で重要なのは、何といってもマススペクトルの解釈であり、特に高分解能マススペクトルの解釈について今まで何度かにわたって書いてきました。今回から数回は、“測定”にフォーカスしてネタを書いてみます。   質量分析計による測定の基本はイオン化にあります。 質量分析は、気相イオンを分析(測定&データ解析)する科学です。今ここに、質量分析したい試料(含有成分)がある時、先ず考えなければならないことは、その試料(含有成分)がイオン化するか否か、複数のイオン化法の中からどのイオン化法を選択すべきか、ということです。ここで、この話を進める前に、イオン化の定義を明確にしておく必要があります。 イオン化とは... Wikipediaでは「電荷的に中性な分子を正または負の電荷をもったイオンとする操作または現象」、またコトバンクでは「電気的に中性の分子や原子が、電子を失うか得るかしてイオンになること」とあります。ここで、イオンになるときに分子内結合の開裂・断片化を伴う場合をイオン化に含めるか否かが問題で、その解釈次第でここでの話は意味が変わってきてしまいます。従ってここでは、分子内結合

こんにちは。質量分析屋の高橋です。前回の関連投稿で、以下に示すプロダクトイオンスペクトルでおかしいと思う点についての疑問点を投げておきました。今回はその解説をします。   ここで言う“おかしい”というのは、このm/z 355プリカーサーイオン(1価)に対して有り得ないプロダクトイオンが観測されているという点です。このプリカーサーイオンの精密質量は355.1175であり、C, H, N, Oの元素を設定し2 ppmのmass tolerance(装置の性能を考慮)で組成推定を行うと、C19H13N7O(不飽和度17.0、誤差-0.31 ppm),C20H19O6(不飽和度11.5、誤差-0.32 ppm),のC6H21N5O12(不飽和度-1.0、誤差-1.75 ppm)の3候補が得られますが、同イオンの同位体パターンとC数との関係および不飽和度から、C20H19O6の可能性が最も高いことが分かります。   このm/z 355.1175プリカーサーイオンが開裂して生成するプロダクトイオンとしては、m/z 337.1070とm/z 319.0963の2イオンは有り得ますが、m/z 285.0092とm/z 266.9986の2イオンは、マスディフェクトを考慮すると考えられません。マスディフェクトは、日本質量分析学会のマススペクトル関係用語集1)では以下のように定義されています。 “原子, 分子, イオンについて、 質量数 (mass number) またはノミナル質量 (nominal mass) あるいは整数値で近似した質量から、モノアイソトピック質量 (monoisotopic mass) を差し引いた値。 正と負のいずれの値もとりうる。”   従って、355.1175, 337.1076, 319.0963, 285.0092, 266.9986のマスディフェクト

こんにちは。質量分析屋の高橋です。 前回に引き続き、高分解能LC-MS/MSに関するネタです。今回は、問題形式にしてみました。試料の内容に余り依らず、未知成分の同定や構造推定には、GC/MSにしろLC/MSにしろ、高分解能MS/MSが有効です。   プリカーサーイオンのみならず、MS/MSにより取得されるプロダクトイオン(プリカーサーイオンが開裂して生成するイオン)の精密質量情報が得られ、組成推定が可能だからです。 最近の高分解能MS/MSが可能なLC-MSはとても性能が良いですが、得られるデータの全てを信頼できるかというと、必ずしもそうではありません。 下の図は、ある化合物を正のESI-LC-MS/MSで測定した時の、マススペクトルとm/z 355をプリカーサーイオンとしたプロダクトイオンスペクトルです。   このプロダクトイオンスペクトル、“チョッとおかしいな?”というところがあるのですが、お分かりになるでしょうか? ご興味あれば考えてみて下さい。正解は、暫くしたらまたブログに書いてみます。

こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。 前回までに、高分解能質量分析計を用いるメリットや、精密質量測定を行う際の質量校正等における注意点について少し解説しました。今回は、高分解能質量分析計を用いたLC/MSにより得られたデータ(マススペクトル)から目的イオンの正確なm/z値を取得し、組成推定を行うという過程における注意点やノウハウについて書いてみたいと思います。     ただし今回の内容は、装置が適切な環境に設置されていて且つ正しく質量校正が出来ている状況にあることを前提にしています。       1. イオン強度やピーク形状と質量確度の高さを確認する  図1に、ある分析種をLC/MS分析した際の抽出イオンクロマトグラム(extracted ion chromatogram, EIC)と3つの保持時間におけるマススペクトルイメージを示します。マススペクトルにおいて、黒線はバックグラウンドイオン、赤線は分析種イオンを示しています。時間軸に沿って分析種由来のイオン強度は変わります。マススペクトル①はEICピークの立ち上がりで観測されたものであり、分析種イオン強度は非常に低いことを意味しています。イオン強度が非常に低い場合、そのプロファイルはノイズがのったようになり、ソフトウエアがピークの位置を正しく判定できません。マススペクトル②のように適度なイオン強度の場合、そのプロファイルは正規分布に近い形状になり、高分解能マススペクトルではそのピーク幅も狭いので、ソフトウエアがピーク位置を正しく判定することができます。 また、マススペクトル③は分析種イオンの強度が大きすぎて、検出器のフルスケール(FS)を超えてしまっているイメージです。 最近はオートゲインコントロール機能のついたLC-MSが多いですが、それでもイオン強度が大きすぎてピーク位置を正し

こんにちは! 質量分析屋の高橋です。前回、高分解能質量分析計で得られたマススペクトルにおいては、イオンのm/z値を小数点以下3桁ないし4桁のレベルで測定することができ、イオン種が分かれば元の分子の精密質量が得られるので、分子の元素組成を推測することができることを説明しました。   一般的に高分解能と呼べるのは、20,000 (FWHM) 以上であり、現在市販されている、LC-MSでは、幾つかのメーカーから販売されているQ-TOFと電場型および磁場型のFT-MSが該当します。そのような高分解能質量分析計を使えば、誰でもどんな状況でも、高い質量確度で精密質量測定ができるかというと、そんなことはありません。装置のことを良く知らない営業マンの方は、“この装置を使えば誰でも簡単に精密質量測定→組成推定ができますよ”と言ったりしますが、実際にはそんなに単純ではありません。幾つか注意点を紹介します。   1. 外部および内部の質量校正  質量校正の重要性については、最初の回で解説しました。この時は、外部質量校正を想定した解説でした。外部質量校正とは、システムが一つの条件に対して一つだけ(例えば正イオン検出モードと負イオン検出モードで各1つ)保有している質量校正情報(電圧や飛行時間 vs m/z値)を基に、測定されたマススペクトルの質量(m/z値)校正を行うものです。  一方、内部質量校正とは、目的の試料とできるだけ近い時間に測定された質量校正試料の m/z値情報を、測定データあるいは複数の測定データを取得するためのバッチファイルなどが保有し、それを基に分析種イオンのm/z値を正確に質量校正するものです。 ①分析種イオンと質量校正試料イオンを同一のマススペクトル上におく方法、 ②試料測定中に常に質量校正試料の測定を同時に行う方法、 ③試料の測定-測定間に質量校正試料の測定

こんにちは! 質量分析屋の高橋です。 以前に投稿した マススペクトルから何が分かる? MSで得られる質量情報について 質量分解能と分子の質量・分子量の関係   では、マススペクトルを測定する時に観測されるイオンのm/z値とそのイオン種から、私達は基本的には元の(イオンになる前の)分子の質量を知ることができること、また質量分析計の質量分解能が低くてモノアイソトピックピークと同位体ピークを分離できない場合には分子量情報が得られること、を解説しました。 質量分析において、m/z値を正確に得ることは最も重要です。m/z値の正確さによって、得られる情報にはどんな差があるのでしょうか? 現在市販されている質量分析計を大きく分類すると、四重極質量分析計(quadrupole mass spectrometer, Q-MS)、イオントラップ質量分析計(ion trap mass spectrometer, IT-MS)、飛行時間質量分析計(time-of-fight mass spectrometer, TOF-MS)、二重収束質量分析計(double focusing mass spectrometer, Sector-MS)、フーリエ変換質量分析計(Fourier transform mass spectrometer, FT-MS)があります。また、FT-MSには、超電導磁石を使うタイプと電場を使うタイプがあります。 “m/z値の正確さ”は、用いる質量分析計の性能に大きく依存します。 また、どれ位の正確さが必要なのかは、分析目的によって異なります。“m/z値をどれくらい正確に測定できるか”を決定する質量分析計の主な性能は“質量分解能”です。 既知化合物の場合、元素組成が分かっているので、分子の質量(通常はモノアイソトピック質量)は理論的に計算できます。また、イオン種が判

こんにちは! 質量分析屋の高橋です。 前回まで、マススペクトルから得られる質量情報について、いくつか解説してきました。今回は、その一環として“窒素ルール”について解説します。窒素ルールとは、C, H, N, O, P, S, ハロゲン元素などから成る一般的な有機化合物において、   ・窒素原子を0個または偶数個含むと、化合物のノミナル質量は偶数になる ・窒素原子を奇数個含むと、化合物のノミナル質量は奇数になるという規則のことです。 これは、質量分析のみならず、化学において化合物の分子量や分子質量を計算する時に役立つ規則です。質量分析においては、マススペクトル上に観測されているイオンのm/z値およびそのイオン種から、その分子に窒素原子が含まれているかを判断する際に役立ちます。EIで得られる奇数電子イオンとESIやAPCIで得られる偶数電子イオンでは、質量の扱い方が少し異なりますので、注意が必要です。   例えば下図(左)の例のように、電子イオン化(EI)で得られたマススペクトルの最も大きなm/z値で観測されている298がM+・である場合、元の分子のノミナル質量も298ですから、窒素原子を0個または偶数個含んでいることになります。 また、下図(右)の正のエレクトロスプレーイオン化(ESI(+))により得られたマススペクトルの例では、m/z 700に観測されているイオンが[M+H]+であることが分かりますので、元の分子のノミナル質量は699となり、窒素原子を奇数個含むことが分かります。  後に、高分解能質量分析計により得られた精密なm/z値からの組成推定について解説しますが、その際にも窒素ルールは役立ちます。

こんにちは! 質量分析屋の高橋です。 前回、マススペクトルから得られるのは、基本的には分子の質量情報であって分子量情報ではないことを解説しました。今回は、マススペクトルから分子量情報が得られる場合もあることを、質量分解能(mass resolving power)との関係において解説します。   質量分析計(MS装置)の最も重要な性能の一つが“質量分解能”です。質量分解能は、日本質量分析学会のマススペクトロメトリー関係用語集1)では、以下のように定義されています。 “ある特定の質量分解度(mass resolution)の値を得ることができる質量分析計の能力” また、質量分解度は以下のように定義されています。 “あるマススペクトルについて、観測されたピークのm/zの値を、スペクトル上でこのピークと分離されて観測される(仮想的な)ピークのm/z値との差の最小値Δ(m/z)で割った値;(m/z)/ Δ(m/z) 質量分解能および質量分解度を表示する際は、その値を求めるのに用いたm/zの計測値と、Δ(m/z)の決め方を示す必要があります。Δ(m/z)は通常、ピークの高さに対する一定の割合の高さで求めたピーク幅とし、その際のピークの高さに対する割合を示します。殆どのMS装置では、質量分解能は半値幅で定義します。 前回投稿の図1に示したアンギオテンシン-Ⅰの例では、m/z 1296.8のモノアイソトープピーク([M+H]+)に対して、62個の炭素の一つが13Cに置き換わった同位体ピーク(m/z 1297.8)を分離するのには、計算上約1300の質量分解度が必要です。この測定に用いた装置は、5000程度の質量分解能が得られるので、上記の同位体ピークは明瞭に分離して観測されています。このように、分子のモノアイソトープピークと同位体ピークを分離できる質量分解能を備えたMS装置を

こんにちは。質量分析屋の高橋です。二回目の「マススペクトルから何がわかる?」で、“質量分析では分子の質量情報が得られる”と書きました。 “質量分析で得られるのは分子量情報ではないのか?”と思われる方がいると思うので、“分子の質量”と“分子量”の違いについて確認してみたいと思います。   有機化合物を構成する炭素、水素、窒素、酸素などの元素を含め、多くの元素には同位体が存在します。同位体が存在する各元素において、天然存在比が最も大きな同位体を“主同位体”と呼びます。炭素、水素、窒素、酸素については、主同位体はそれぞれ、12C, 1H, 14N, 16Oです。分子を構成する元素の同位体を区別して、分子の質量を計算したものが“分子の質量”です。 例えば、ペプチドの一種であるアンギオテンシン-Ⅰの分子式はC62H89N17O14であり、各元素の主同位体の質量の合計は1295.6775となります。この、主同位体の質量を用いて計算した分子の質量を、モノアイソトピック質量と言います。 分子量は、正確には相対分子質量と言います。 すなわち、分子を構成する各元素について、全ての同位体の質量と天然存在比を加味した平均質量です。上記アンギオテンシン-Ⅰの分子量は、1296.4987となります。 アンギオテンシン-Ⅰを、CHCA(α-cyano-4-hydroxycinnamic acid)をマトリックスとした正イオン検出のMALDI-TOFMS(matrix assisted laser desorption ionization time of flight mass spectrometry,マトリックス支援レーザー脱離イオン化飛行時間質量分析)で測定したマススペクトルを図1に示します。   アンギオテンシン-Ⅰは、上記の条件で測定するとプロトン付加分子が主として観測

こんにちは! 質量分析屋の髙橋です。第一回目、第二回目共に、マススペクトルの横軸であるm/zについて触れています。今回は、このことについて、もう少し掘り下げて考えてみます。   日本質量分析学会のマススペクトロメトリー関係用語集1) において、m/z は以下のように定義されています。 「m/zは、イオンの質量を統一原子質量単位で割り、さらにイオンの電荷数で割った無次元量。表記に際しては、必ず小文字の斜体(イタリック体)で、空白を挿入しないで記述する。」 (バイオマーケットjpの仕様上、本ページのタイトル部分のみイタリック体になっておりません。ご了承ください。) また、m/z の定義とその使用法に関する論文2) の中に以下の記述があります。 「一価イオンの場合、統一原子質量単位で表した質量の値とm/zの値は一致します。」 私は、m/zの表記について考えていた時、この論文2)の記述を読んで不思議に思いました。「一価イオンの場合、統一原子質量単位で表した質量の値とm/zの値は一致する」のであれば、「mは統一原子質量単位で表したイオンの質量」としても良いのではないかと。   m/z が無次元量である必要性は個人的には特に感じないのですが、m/z に質量の単位が残ってしまっては不具合が起こるということは、以下のような多価イオンのマススペクトルを考えると良く理解できます。 これはタンパク質を正イオンESIで測定した時のマススペクトルですが、このように多価イオンが観測されている場合、m/zに質量の単位が残っているとおかしなことになります。 このことから私は、m/zのmは、イオンの質量を統一原子質量単位で割ることで質量の単位をなくす必要があるのだと理解しました。引用文献1) マススペクトロメトリー関係用語集、日本質量分析学会用語委員会編、国際文献印刷社、p. 65 (2

マススペクトルは質量分析によって得られる最も基本的なデータであり、縦軸を信号強度、横軸をm/zで表した二次元表示です(mとzはそれぞれイタリック体で表記)。 ここで、mはイオンの質量を統一原子質量で割った値、zはイオンの電荷数を表しています。  図1と2に、異なる化合物を異なる条件で測定したマススペクトルを示します。         マススペクトルには、大きく分けて①分子構造を保持したイオンと、②分子構造の中の結合が開裂して生成したフラグメントイオン、の二種類のイオンが観測されます。 分子構造を保持したイオンは、例えば正(+)イオン検出条件においては、分子から電子が取れる、分子にプロトン(H+)やナトリウムイオン(Na+)が付加する、などによって生成します。 分子から電子が1つ取れて生成するイオンを分子イオン(M+・)、分子にプロトンが付加したイオンをプロトン付加分子([M+H]+)、分子にナトリウムイオンが付加したイオンをナトリウム付加イオン([M+Na]+)と呼びます。 ここで、“分子構造を保持する”とは、三次元的なコンフォメーションまで含めて保持しているという意味ではなく、“分子内の結合が開裂していない”という意味になります。 分子構造を保持したイオンのイオン種を判定できれば、元の分子の質量を知ることができます。例えば正の分子イオンについては、電子の質量を無視すれば、イオンのm/z値は元の分子の質量に等しくなります。 また、分子構造を保持したイオンとフラグメントイオンとのm/z差(と必要に応じて価数情報)から、分子の部分構造に関する知見を得ることができます。 例えば、分子構造を保持したイオンとフラグメントイオンが両方共1価で、その差が整数値として17や18であれば水酸基、43や44であればアセチル基やプロピル基の存在が考え

こんにちは。質量分析屋の高橋です!初回は、質量分析計(MS装置)におけるキャリブレーションの話です。 MS装置のキャリブレーションとは、MSで得られるマススペクトルの横軸(m/z、mはイオンの質量、zは電荷数)を補正する操作です。 正確にはマスキャリブレーション、日本語では質量校正と言います。     MSはイオンを分析する技術であり、マススペクトル上に観測されたイオンのm/z値から元の分子の質量を知ることができるため、測定結果として得られたm/z値が正しいかどうかは、質量分析で最も重要なことです。 つまり、キャリブレーションが正しく実行されたかどうか、あるいは今の装置が正しくキャリブレーションされている状態かどうかを検証することが、質量分析で正しい結果を得るためには極めて重要です。     私達はマススペクトルからイオンのm/z値を知ることができますが、MS装置はイオンのm/z値を計っている訳ではありません。 例えば、飛行時間質量分析計(time of flight mass spectrometer, TOF-MS)ではイオンの飛行時間、四重極質量分析計(quadrupole mass spectrometer, Q-MS)ではイオンが四重極を通過する時の四重極に印加する直流電圧と高周波交流電圧を計っています。 そして、キャリブレーションによって、イオンのm/z値と飛行時間や電圧の紐づけがなされているから、イオンのm/z値を知ることができる訳です。     最近のMS装置はソフトウェアの機能がとても充実していて、キャリブレーションが正しく実行されたかどうかを検証してくれます。 その機能はとても有用で便利なのですが、機能に頼りすぎてしまい自ら検証できる分析者が少なくなっているように思います。 日常の業務でMS装置をお使いの分析者の方は、自分自身の目でその検

はじめまして。質量分析屋こと、エムエス・ソリューションズの髙橋 豊です。このコーナーで、バイオ研究者向けのLC-MSに関する話題を提供していくことになりました。私が質量分析(mass spectrometry, MS)に出会ったのは、1986年、群馬工業高等専門学校の5年生、卒業研究で田島進先生の研究室に配属になった時でした。   当時、田島研には日立製作所製の磁場型MS装置が何台かありましたが、お金のない研究室だったので新品の装置は皆無で、全て企業や大学で廃棄される装置を輸送費だけ払って譲り受けていました。 磁場型MS装置は大きいので、そのままでは運べません。 何分割かに解体して運びます。メーカーのエンジニアの方に組み立てや調整をお願いするお金はないので、自分達で組み立てから調整まで全て行います。そのようにして使えるようになった装置を用いて行った私の研究テーマは、“種々の前駆体イオンから生じるm/z 74イオンの構造”でした。有機イオンのフラグメンテーション解析が主であり、この時の経験は今の仕事に大いに役立っています。 高専卒業後は群馬大学工学部の3年に編入し、4年から修士まで有機ケイ素化合物の合成を主に行う研究室にいました。 そこに日本電子製の磁場型MS装置(DX302;イオン源はEI*1, CI*2, FD*3)があり、私が高専でMSの研究をしていた事を知った故永井洋一郎教授から、「君は高専の田島先生のところでMSをやっていたんだって?  うちにも装置があるから、MSの研究をやってみなさい」と言われ、研究室で他の人が合成した有機ケイ素化合物のフラグメンテーション解析が研究テーマになりました。 必要に応じて自分でも合成しましたが、他メンバーに比べると合成経験は圧倒的に少なかったですね。Si-Si単結合はC-C単結合と異なり、紫外線領域の光を吸収して分解します。 有