質量分析屋の髙橋です。
前回から質量分析部の話を書き始めていて、先ずは“イオントラップ”を取り上げました。前回予告した通り、先ずは定性分析向けの質量分析部を取り上げていこうと思いますので、今回は“飛行時間質量分析部”を取り上げます。飛行時間は英語ではtime of flightなので、飛行時間質量分析計は通常TOFMSと略されます。タイトルは質量分析部としていますが、ここでは書きやすいので、略語ではMSを使う事にします。
このシリーズでは、余り原理的な事は書かず、特徴や用途に関して中心に書いていこうと思います。TOFMSの特長は、質量分解能が高い事とスペクトル取込スピードを速く設定できる事でしょう。TOFMSがMALDIとの組合せで日本市場に登場したのは、もう30年以上前になると思いますが、当時は決して質量分解能の高い装置とは言えない代物でした。TOFMSはパルス的にイオンを生成するイオン化法との組合せが容易なので、MALDIとの組合せにおいて最初に実用化され、EIやESIのような連続イオン化との組合せが可能になったのは、直交加速と呼ばれる技術が開発されてから後の事です。そして、TOFMSが高分解能質量分析計として認知されるようになったのも、凡そその頃からだと思います。
高分解能の利点は、低分解能では重なってしまうm/z値が近いイオン同士を分離出来る事つまり選択性の高さと、イオンのm/z値を正確に測る事が出来る事です。イオンのm/z値とイオン種から元の分子の質量を推測する事が出来るため、“イオンのm/z値を正確に測る事=分子の精密質量を知る事”となり、その数値から分子を構成する元素組成即ち分子式を推測する事が出来ます。分子式が推測できるというのは、定性分析においては本当に重要で、特に有機合成の分野で論文を書いた場合、高分解能質量分析による組成推定の結果を記載する事は、必ずと言って良い程求められると思います。有機合成の分野では、狙った通りの構造の化合物が合成出来たかを、様々な分析技術を使って確認する訳ですが、主役はX線やNMRです。詳細な構造はこの2つで確認できるので、質量分析に求められるのは、分子の質量と分子式くらいになります。合成品ですから、NMRを測定出来るだけの“量”を確保する事は、それ程大変ではない訳です。
一方、天然物試料や生体試料中の微量の未知成分の構造推定を行う場合などは、ターゲットが微量ですからNMRを測定できるだけの量を集めるのが大変な訳です。もちろん、最終的に構造を決める時には、どうしてもNMRは必要ですから集めなければなりませんが、取り得ずGC/MSやLC/MSで構造のあたりを付けたいと思う訳です。LC/NMRという手も有りますが、そもそも装置をもっている施設はそう多くないですし。そのような場合には、最低限高分解能マススペクトルから得られる分子式情報は必要です。加えて、GC/MSにおいては、EIで分子イオンが検出されず分子質量が推測できない事が多々あり、ライブラリーサーチを用いても化合物推定が困難な場合があります。その場合には、CI, FI, PIなどのソフトイオン化の併用が有効です。ソフトイオン化により得られる[M+H]+など分子質量関連イオンの分子式情報、加えてEIで得られるフラグメントイオンの元素組成情報、更にライブラリーサーチの結果、また昨今AIを使ったこんなソフトも開発されていて、GC-TOFMSは非常に有用な装置です。もちろん、“分析種がGC分離の対象になれば”という大前提が必要ではありますが...
MALDI-TOFMSは、LC-TOFMSやGC-TOFMSに先んじて実用化されましたが、こと質量分解能に関しては、同じイオン光学系(飛行管の長さやリフレクターの数など)であれば、MALDI-TOFMSよりLC-TOFMSやGC-TOFMSの方が高い印象です。これは、また別の時に考えたいと思いますが、LC-TOFMSやGC-TOFMSで用いられる直交加速の方が、イオンを飛行管に打ち込むときの運動エネルギーのばらつきを小さく出来るだめだと思います。MALDI-TOFMSで質量分解能の高い装置は、やはり日本電子のSpiral-TOFでしょうか! らせん階段状にイオンを16 mも飛ばします。MALDIによるイオン化では、生体高分子でも多価イオンが生成し難く、基本的には1価イオンが生成します。観測できるm/z値の上限が事実上ないTOFMSは、その意味でMALDIとの組合せに適していると思います。
LC-TOFMSも装置としては市販されていますが、定性分析特に未知成分の構造推定を行うという観点からは、やはりMS/MS(プロダクトイオン分析)が出来ないというのは、かなり弱い部分です。その意味では、次回に登場するQ-TOFMSの方に大きなメリットがあります。プロダクトイオン分析が出来なくても、In-source CIDでイオンを開裂させれば、GC/MSのEIと同じではないか? と思われる人も多いと思います。GC-EI-TOFMSと、LC-TOFMSのIn-source CIDでイオンを開裂させる方法の最大の違いは、GCとLCの分離能の違いでしょう。LC/MSで用いられるIn-source CIDは、大気圧イオン源のイオン導入孔付近でイオンを開裂させますが、MS/MSのようにプリカーサーイオンを選択する事は出来ないため、クロマトグラフィーでの分離が不十分だと、混合物の状態で複数のイオンが同時に開裂する事になります。キャピラリーGCとHPLCやUHPLCを比べると、やはりGCの方が、分離能が圧倒的に高いですから、GCは未分離の成分が共溶出する可能性が低いと言えます。実際、LC-TOFMSは市場では余り売れていないと思います。定性分析向けの装置としてのLC-MSには、やはりQ-TOFMSの方が有用であると言えるでしょう。
とはいえ、これはあくまでも質量分析部としての考え方であって、実際の装置はイオン源との組合せが重要であり、同じESIでもメーカーによってそれぞれ特徴があります。ある化合物を複数のメーカーのESI/MSで測定した時、このメーカーのESIではイオン化するけど、こっちのメーカーのESIではイオン化しない、と言う事が実際に起こります。質量分析は、先ずは分析種がイオン化しないと始まらないので、質量分析部の不利な部分に目をつぶってもイオン源が自分の分析目的に合っているから、こっちの装置を選択するという考え方も有りだと思います。
次回は、Q-TOFとoOrbitrapについて考えてみたいと思います。

