質量分析屋の髙橋です。
前々回・前回に引き続き、分析目的と質量分析計の種類について書いてみます。今回は、質量分析部についてです。質量分析部は、イオン化部で生成したイオンを、そのm/zに応じて分離する場です。真空中でイオンに何らかの力を加えて運動させる訳ですが、イオンのm/zの大きさに依って、その運動の仕方(スピードや運動の軌道など)が変わるため、イオンをm/zに応じて分離する事が出来ます。
現在市販されている質量分析計には、様々な質量分析部が使われています。二重収束(磁場&電場)、四重極、三連四重極、飛行時間、イオントラップ、オービトラップ、イオンサイクロトロン、リニアイオントラップ、異なる2つの質量分析部を直列に配したハイブリッドタンデム、など。それぞれの質量分析部は、質量分解能の違いやMS/MSが可能かどうか、定量分析における選択性の違い、など、機能(出来る事、得意・不得意)が異なります。
従って、質量分析の目的に応じて、質量分析部を選択する事になります。
イオン化部は、分析種の物理化学的な性質に応じて使い分ける必要がある事は、前回の記事で解説しています。イオン化部は、質量分析計の構成の中では比較的安価であり、通常1つの質量分析部に対して複数のイオン化部を接続可能で、装置として複数のイオン化部を保有していれば、分析種の物理化学的な性質に応じて、それらを交換しながら複数のイオン化部を用いる事が出来ます。そして、その中で最も適したイオン化部を用いて質量分析を行う事が可能です。
一方質量分析部は、文字通り質量分析計の中心であり、質量分析部=質量分析計と言って差し支えありません。実際、質量分析計の名称は、質量分析部の名称(と時としてイオン化部を組み合わせて)そのままである場合が多いです。四重極質量分析計(部)、飛行時間質量分析計(部)、などです。定性分析と定量分析では、通常異なる質量分析部を用いますので、これから質量分析計を導入しようとしている企業などは、GC-MSが良いかLC-MSが良いか、イオン化法を何にするか、と言う事に加え、質量分析部を何にするか、を慎重に検討する必要があります。質量分析計は、最も安価な四重極質量分析計であっても数百万円はしますし、高い装置になると1億円以上もします。
導入してから「目的に合わなかった」と言っても後の祭りです。
そして、メーカーや代理店の営業の人の中には、装置の事をよく分からずに売っている人が、実は結構います。取り敢えず自分が担当している装置を売りたいという考えなのだと思いますが、そういう人に勧められて目的に合わない装置を買ってしまわないように、お近くに専門家がいれば相談してください。
また、現在質量分析計を使っている人は、その装置の質量分析部の種類を把握し、その特徴を知る必要があります。定量分析向きの質量分析部の装置を使って定性分析をやろうとしても、満足のいく結果が得られる可能性は非常に低いです。車に例えるなら、ワンボックスカーでサーキットを走ったり、2シーターのスポーツカーで、4人家族で出かけようとしたりしても、無理がありますよね。それと同じことです。
今回から数回に亘って、定性分析向きと定量分析向きの質量分析部について、その種類と特徴、その他諸々思いつく事を書いてみます。原理については詳しく説明しません。今回はイオントラップを取り上げます。
【定性分析向きの質量分析部】
・イオントラップ(ion trap, IT)
イオントラップ質量分析部には、ポールトラップ、キングドントラップ、ペニングトラップの三種類があり、キングドントラップとペニングトラップは、それぞれ後述するオービトラップとFT-ICRに用いられています。そして、一般的にイオントラップ質量分析部とは、ポールトラップの事を指します。
イオントラップ質量分析部は、小型に設計できるという特徴があり、イオン化部や検出部を合わせた質量分析計としても、他種に比べると小型です。そして、比較的安価でもあります。MS/MSやMSnが可能で、注目するm/zのイオンをトラップ内に閉じ込めて、振動させてガスと衝突させる事によって開裂させ、プロダクトイオンスペクトルを得る事が出来ます。また、プロダクトイオンの中から更に特定のイオンだけをトラップ内に残して更に開裂させる、と言う動作を複数回繰り返す事で、MSnが可能です。MSnにより構造を掘り下げて解析する事ができるのが、ITの最大のメリットです。しかし、イオンの強度は、この操作を繰り返す毎に減少するため、繰り返す事の出来る回数には制限があります。LCとのオンラインで使う時などは、ピーク幅とスペクトル取得時間との兼ね合いもあり、実用上はMS4が限界でしょう。また、イオントラップは低分解能の質量分析部であり、マススペクトル上に観測されるイオンのm/z値の正確性(質量確度)は整数レベルか、せいぜい小数点以下一桁目でしょう。
ITは、小さな空間にイオンとため込むと言う性格上、大量のイオンがトラップ内に入るとイオン同士が干渉する“スペースチャージ”と言う現象が起こり、マススペクトル上のイオンのm/z値がずれたり、イオン強度を正しく計測出来なくなったり、と言う不具合が起こります。この理由により、ITは定量分析には不向きな質量分析部と言えます。
ITは定性分析向きではありますが、前述した様に質量確度は低く、未知化合物の構造推定には限界があります。或る程度構造の推測が出来ている化合物の構造確認、例えば合成品や医薬品代謝物の構造確認、などに有用でしょう。
しかし、どうしても中途半端な感じは否めないので、一時期に比べると市場で使われる台数は減ってきていると思います。もちろん装置購入時の予算に依りますが、どうせ定性分析用の質量分析計を買うなら、Q-TOFやQ-Orbitrapのような高分解能のMS/MS装置が良いと思う現場の分析者は、やはり多いでしょう。
ITでイオンをm/zに応じて分離する機構は、四重極質量分析部(quadrupole, Q)に非常に近いです。両者ともにマシューの微分方程式で説明が出来ます。直流電圧と交流電圧を使い、電圧をスキャン(掃引)する事でマススペクトルを取得するという点も共通です。私は数学が苦手なので、その方程式を解いたり説明したりすることは出来ませんが...
原理的に非常に似ているITとQですが、大きく異なる点が2つあります。1つは前述した定量性に関する違い、Qは定量向きですが、ITは定量には不向きです。もう1つは、スペクトル感度の違いです。Qでは、上流(イオン下部)から連続的に流れてくるイオンを、電圧スキャンによってm/z分離しますが、1 m/z毎にイオンが四重極を通過します。つまり、あるm/zのイオンが四重極を通過している瞬間、他のm/zのイオンは四重極を通過出来ません。例えばm/z 1~500までのマススペクトルを測定する場合、イオンの利用効率は1/500になります。一方ITの場合、全てのイオンをトラップ内に貯めた後、m/zの小さなイオンから順番に吐き出して検出します。イオンの利用効率は、貯める時間と吐き出す時間の割合に依存します。両者が同じ場合(例えば50 msで貯めて50 msで吐き出す)、1/2となりQに比べると圧倒的に高いです。マススペクトルを取得する測定モードにおいては、ITはQに比べて多くのイオンを検出できるために、スペクトル感度が高いという事になります。
Qの入口と出口にエンドキャップ電極を配したリニアイオントラップと言う質量分析部もあります。リニアイオントラップは、今まで述べてきたイオントラップに比べると、イオンをトラップする空間容量が大きいために、スペースチャージの問題はかなり低減されます。リニアイオントラップであれば、定量分析にも応用可能です。実際Sciex社では、三連四重極質量分析部のQ3の部分にリニアイオントラップを配したQTRAPと言う装置を、定量分析向けに出しています。
現在イオントラップ単体の質量分析計を製品として発売しているのはBruker社、リニアイオントラップはThermofisher Scientific社、両者とも主力はLC-MSだと思います。それと、チョッと変わり種なのは、島津製作所がMALDIのイオントラップを最近発売しました。同社には元々MALDI-IT-TOFMSがありましたが、MALDI-ITの部分までを製品化したイメージですね。ただし、MALDI-ITに用いたイオントラップはデジタルイオントラップと言う技術で、通常のイオントラップよりも更に小型化が出来たようです。イオントラップは、イオンの貯め込みと吐き出しを繰り返してマススペクトルを取得するので、パルス的にイオンが生成するMALDIとの相性は元々良いのですよね。
次回以降、次の質量分析部についても、順次書いていく予定です。
・飛行時間
・四重極-飛行時間
・オービトラップ
・FT-ICR
定量分析向き
・四重極
・三連四重極

