こんにちは。質量分析屋の高橋です。前回の関連投稿で、以下に示すプロダクトイオンスペクトルでおかしいと思う点についての疑問点を投げておきました。今回はその解説をします。

ここで言う“おかしい”というのは、このm/z 355プリカーサーイオン(1価)に対して有り得ないプロダクトイオンが観測されているという点です。このプリカーサーイオンの精密質量は355.1175であり、C, H, N, Oの元素を設定し2 ppmのmass tolerance(装置の性能を考慮)で組成推定を行うと、C19H13N7O(不飽和度17.0、誤差-0.31 ppm),C20H19O6(不飽和度11.5、誤差-0.32 ppm),のC6H21N5O12(不飽和度-1.0、誤差-1.75 ppm)の3候補が得られますが、同イオンの同位体パターンとC数との関係および不飽和度から、C20H19O6の可能性が最も高いことが分かります。
このm/z 355.1175プリカーサーイオンが開裂して生成するプロダクトイオンとしては、m/z 337.1070とm/z 319.0963の2イオンは有り得ますが、m/z 285.0092とm/z 266.9986の2イオンは、マスディフェクトを考慮すると考えられません。マスディフェクトは、日本質量分析学会のマススペクトル関係用語集1)では以下のように定義されています。 “原子, 分子, イオンについて、 質量数 (mass number) またはノミナル質量 (nominal mass) あるいは整数値で近似した質量から、モノアイソトピック質量 (monoisotopic mass) を差し引いた値。 正と負のいずれの値もとりうる。”
従って、355.1175, 337.1076, 319.0963, 285.0092, 266.9986のマスディフェクト値は、それぞれ-0.1175, -0.1076, -0.963, -0.0092, 0.0014です。C, H, N, Oを中心に構成される有機分子では、分子の質量が大きくなるほど、マスディフェクト値は小さくなります。その意味では、上記5イオンのマスディフェクト値の傾向はおかしくないのですが、変化量が有り得ないのです。確認するために、285.0092, 266.9986の組成推定を、プリカーサーイオンの場合と同じ組成候補条件(プロダクトイオンは質量確度が低くなりやすいためmass toleranceは5 ppmに拡大)で行ってみます。285.0092に対してはC7H9O12(不飽和度3.5、誤差1.22 ppm),C6H3N7O7(不飽和度9.0、誤差1.24 ppm),C20HN2O(不飽和度21.5、誤差3.02 ppm),C8H5 N4O8(不飽和度8.5、誤差-3.47 ppm)となります。また、266.9986に対してはC7H7O11(不飽和度4.5、誤差1.17 ppm),C6HN7O6(負飽和度10.0、誤差1.19 ppm),C8H3N4O7(不飽和度9.5、誤差-3.84 ppm)となり、両イオンの何れの組成候補についても、プリカーサーイオンの組成から考えると、その組み合わせにおいて有り得ないことが分かります。
組成推定をすれば一目瞭然ですが、その前にm/z値を見ただけでプリカーサーイオンに対するプロダクトイオンの組み合わせが有り得るのか否か、判断できるようになると解析のスピードがグンとアップします。 このように、プリカーサーイオンとの組み合わせが考えられないm/z値のピークがプロダクトイオンスペクトルに観測される原因としては、以下の2つが考えられると思います。
① プリカーサーイオンを選択するm/z幅として設定した範囲に夾雑イオンが混入した
② 何らかのノイズピークである
①については、データを確認してその可能性が排除できています。
②については、このスペクトルの質(強度)を考慮すると考えにくいです。このプロダクトイオンスペクトルはDDA (data dependent acquisition)を用いて得られているので、必ずしも高い強度のプリカーサーイオンが選択される訳ではないので、このような現象が起こる可能性(ノイズピークがプリカーサーイオンに混ざってしまう)はあるのですが、このスペクトルに関しては、直前のマススペクトルを確認しているので、それはないと考えられます。よって、問題が起こる原因は明らかではありませんが、個人的にはアーティファクトピークの類ではないかと考えています。この装置は非常に優れた性能をもっていますが、時々このような現象がみられます。使っている装置の癖を知ることが、正確な解析をする上で非常に重要になります。
引用文献 1) 日本質量分析学会用語委員会編「マススペクトロメトリー関係用語集第3版(WWW版)、p. 67(2009).
