「最近、物忘れが増えてきたかな?」そんな些細な不安が、いつか自分や大切な人の思い出を奪ってしまうかもしれない——。アルツハイマー病は、世界で約4,000万人もの人々が直面している、現代医学における大きな壁の一つです。しかし、私たちの体の中に元々存在する「ある分子」を活性化させることで、失われかけた記憶を取り戻せるかもしれないという、希望に満ちたニュースが飛び込んできました。最新の国際共同研究が解明した、脳の「修復スイッチ」を入れる驚きのメカニズムをご紹介します。
認知症の最大の原因であるアルツハイマー病(AD: Alzheimer's Disease)は、記憶や自立した生活を徐々に奪っていく深刻な疾患です。数十年にわたる研究にもかかわらず、この病気の進行を完全に止めたり、逆転させたりする治療法はまだ確立されていません。
ADにおいて神経細胞の機能不全を引き起こす主な要因の一つが、タウ(tau)と呼ばれるタンパク質です。通常、タウは神経細胞の内部構造を安定させる、いわば「列車の線路」を支える重要な役割を担っています。しかし、ADを発症するとタウに異常な変異が起き、凝集(固まり)を始めます。これにより「線路」である輸送システムが崩壊し、神経細胞がダメージを受けて記憶を失ってしまうのです。
この難題に対し、ノルウェー、中国、ポルトガルなどからなる国際研究チームは、体内の天然代謝物である酸化型ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド(NAD⁺: nicotinamide adenine dinucleotide, oxidized form)を高めることで、ADに伴う脳の変性から保護できる新しいメカニズムを報告しました。
本研究成果は2025年11月7日付の学術誌「サイエンス・アドバンシズ(Science Advances)」に、論文タイトル「「NAD⁺ Reverses Alzheimer’s Neurological Deficits Via Regulating Differential Alternative RNA Splicing of EVA1C(NAD⁺はEVA1Cの特異的な選択的RNAスプライシングの調節を介してアルツハイマー病の神経欠損を改善する)」」として掲載されました。
NAD⁺が脳の健康を支える仕組み
本チームを率いるのは、オスロ大学およびアケシュース大学病院(ノルウェー)のエヴァンドロ・フェイ・ファン(Evandro Fei Fang)博士(准教授)、曁南大学(中国)のオスカー・ジュンホン・ルオ(Oscar Junhong Luo)博士(教授)、ミーニョ大学(ポルトガル)のジョアナ・M・シルバ(Joana M. Silva)博士(准教授)らです。
NAD⁺は、エネルギー代謝や神経細胞の回復力に関わる、生命維持に不可欠な分子です。しかし、加齢とともに、あるいは神経変性疾患を患うと、そのレベルは低下してしまいます。筆頭著者のアリス・ルイシュエ・アイ(Alice Ruixue Ai)博士は次のように述べています。
「予備的な研究では、ニコチンアミドリボシド(NR)やニコチンアミドモノヌクレオチド(NMN)といったNAD⁺の前駆体を補給することが、ADの動物モデルや初期の臨床試験で効果を示すことがわかっていました。しかし、その分子メカニズムの詳細はこれまで不明なままでした」
今回の研究で、NAD⁺が「RNAスプライシング(RNA splicing)」というこれまで知られていなかった経路を通じて作用することが判明しました。この経路を制御しているのが、EVA1Cというタンパク質です。
RNAスプライシングとは、一つの遺伝子から複数の異なるタンパク質(アイソフォーム)を作り出すプロセスのことで、ADのリスク因子のひとつとしても注目されています。NAD⁺のレベルが上がると、EVA1Cがこのスプライシングの「ミス」を修正する手助けをします。その結果、脳の健康に重要な数百もの遺伝子の機能が回復し、タウタンパク質によるダメージを逆転させることが可能になるのです。
線虫からマウス、そしてヒトの脳へ
研究チームは、コンピュータによる予測、線虫やマウスを用いた動物モデル、さらにはヒトの脳サンプルを用いた多角的な検証を行いました。
線虫: 有毒なタウタンパク質によって生じたスプライシングの異常が、NAD⁺の投与で修正されることを確認。
マウス: タウ変異を持つマウスにNAD⁺を補給したところ、RNAスプライシングが改善され、脳機能と記憶力が向上しました。
確証: フェイ・ファン博士は、「EVA1C遺伝子をノックダウン(抑制)すると、これらのメリットが失われたことから、NAD⁺による神経保護にはEVA1Cが不可欠であることが裏付けられました」と語ります。
ヒト: 初期のAD患者の脳細胞では、EVA1Cのレベルが著しく低下していることも確認されました。
AIが解き明かした結合の秘密
チームはさらに、人工知能(AI: artificial intelligence)駆動型プラットフォームを活用し、数百万個のタンパク質のデータから、EVA1Cがどのように他のタンパク質と相互作用するかを解析しました。
その結果、NAD⁺はEVA1Cを特定の形態へと変化させ、タンパク質の折りたたみや除去を担う重要なタンパク質と効率的に結合させることがわかりました。これにより、「エネルギー代謝(NAD⁺)」「遺伝子情報の処理(RNAスプライシング)」「タンパク質の管理」という、ADで損なわれる3つの重要なプロセスが一つに繋がったのです。
アルツハイマー病治療の新たな一歩へ
今回の発見は、ヒトにおけるNAD⁺補充戦略の最適化や、新しい治療法の開発に向けた強固な基盤となります。アイ博士は、「NAD⁺レベルを維持することは、神経細胞のアイデンティティを保ち、認知機能の低下を遅らせる助けになります。今後は、RNAスプライシングを強化する組み合わせ治療への道が開かれるでしょう」と展望を語っています。
この国際的な取り組みには、ノルウェー、中国、ポルトガルに加え、イギリス、日本、ギリシャ、スペインの研究者も参加しており、複雑な脳疾患の解明における国際協力の重要性を改めて示すものとなりました。

