脊椎動物の脳はどうやって複雑に進化した?全ゲノム重複がもたらした細胞の多様性
私たちの脳は、なぜこれほどまでに洗練され、多くの細胞タイプを持っているのでしょうか?その謎を解き明かす鍵が、進化の初期に起因するゲノムの大事件にありました。学術誌「Nature」に掲載された最新の研究論文「Whole-genome duplication shaped cell-type evolution in the vertebrate brain(全ゲノム重複が脊椎動物の脳における細胞タイプの進化を形作った)」では、初期の脊椎動物の進化過程で発生した「全ゲノム重複(WGD: whole-genome duplication)」が、脳の複雑性を生み出す強力な原動力となったことが明らかにされました 。
オックスフォード大学のユアンジェン・チュー(Yuanzhen Zhu)博士 やセバスチャン・M・シメルド(Sebastian M. Shimeld)博士 、そしてアモイ大学のグアン・リー(Guang Li)博士 らの国際研究チームは、ヒトやマウス、そして原始的な脊索動物であるナメクジウオなどの脳のシングルセル・トランスクリプトーム データを徹底的に比較し、重複した遺伝子がどのように新しい脳細胞の誕生を支えたのか、その進化の軌跡を突き止めました 。
ゲノムの倍加がもたらした「細胞のイノベーション」
脊椎動物の祖先は、進化の過程でゲノム全体が丸ごと倍に増える「全ゲノム重複(WGD)」を経験しています 。これにより、すべての遺伝子のコピー(オーノログ:ohnologue)が作られました 。
研究チームは、ヒト(Homo sapiens)、マウス(Mus musculus)、トカゲ(Pogona vitticeps)、ヤツメウナギ(Petromyzon marinus)という4種の脊椎動物と、外群としてナメクジウオ(Branchiostoma floridae)の全脳シングルセル・トランスクリプトームを解析しました 。その結果、脊椎動物で見られる主要な脳細胞の多くが、ナメクジウオの細胞と1対1の単純な対応関係(相同性)を示さないことが分かりました 。
特に、1回目の全ゲノム重複に由来する遺伝子コピーは、小規模な遺伝子重複(SSD: small-scale duplication)によって増えた遺伝子よりも、脊椎動物の細胞タイプの多様化において圧倒的に重要な役割を果たしていたのです 。
「細胞 complexity-first」か「WGD-first」か?
遺伝子が先か、細胞の複雑化が先か。研究チームは、進化的メカニズムを検証するために2つのモデルを比較しました 。
細胞 complexity-first モデル: ゲノム重複の前に新しい細胞タイプが生まれ、後から遺伝子が適応したとする説 。
WGD-first モデル: ゲノム重複によってまず遺伝子コピーが生まれ、それらが分業化(サブファンクショナライゼーション:subfunctionalization)することで、新しい細胞タイプが誕生したとする説 。
脳の「マクログリア(macroglia)」を対象とした詳細な解析や、ナメクジウオの遺伝子変異体を用いた実験の結果、ナメクジウオの祖先的な細胞では、脊椎動物で別々のグリア細胞を特徴づける転写因子(SoxEやOligなど)が同時に発現していることが確認されました 。これは、ゲノム重複の後に遺伝子が個別の細胞へと役割を分担させていったという「WGD-first モデル」を強く支持するものです 。
数億年を経てなお続く全ゲノム重複の影響
さらに興味深いことに、この全ゲノム重複の影響は、脊椎動物の誕生直後だけでなく、その後の数億年間にわたって新しい細胞タイプを作り出し続けました 。
研究チームが、比較的新しい時代(約1億5000万年前以降)に登場した羊膜類の「小脳核(CN: cerebellar nucleus)」の興奮性ニューロンを解析したところ、ここでも驚くほど多くのマーカー遺伝子が、大昔の全ゲノム重複に由来する「オーノログ」であることが判明しました 。
ゲノムの倍加という過去の大事件で得られた遺伝子の原資が、時を経て新しい脳の構造や、より複雑な神経ネットワークを洗練させるための「進化のバッファ(余力)」として機能し続けているのです 。
https://www.nature.com/articles/s41586-026-10629-x