私たちの体、特に哺乳類の臓器は数百から数千の異なる細胞状態の恒常性によって維持されていますが、大規模なシングルセル解析を行っても「希少な細胞タイプ」は過小評価されがちで、その詳細な分子メカニズムや動態を特徴づけることは困難でした 。もし、特定の細胞だけをピンポイントで釣り上げ、その遺伝子の働きを隅々まで調べることができたらどうなるでしょうか?
ロックフェラー大学のジュンユエ・カオ (Junyue Cao) 博士とウェイ・ジョウ (Wei Zhou) 博士らの研究チームは、この課題を解決する革新的な手法を開発しました 。その研究成果は、「Transcript-guided targeted cell enrichment for scalable single-nucleus RNA sequencing(拡張可能な単一核RNAシーケンスのための転写産物ガイド型標的細胞濃縮)」という論文で発表されています 。
カオ博士とジョウ博士のチームが開発した「EnrichSci」という新技術は、抗体を使わずに希少な細胞タイプを効率的に濃縮し、その全遺伝子領域をカバーするプロファイリングを可能にする画期的な手法です 。このプラットフォームは、特定のRNAを標的とするハイブリダイゼーション連鎖反応RNA蛍光in situハイブリダイゼーション (HCR RNA FISH: hybridization chain reaction RNA fluorescence in situ hybridization) と、コンビナトリアル・インデクシングを利用した拡張性の高い単一核RNAシーケンス (snRNA-seq: single-nucleus RNA sequencing) を組み合わせています 。
老化する脳の謎に迫る
研究チームは、EnrichSciの威力を実証するため、マウスの老化脳内に存在し、ミエリン形成に関与するオリゴデンドロサイト (oligodendrocytes) に焦点を当てました 。従来の偏りのない全脳解析では約5.7%しか検出できなかったこの細胞を、EnrichSciを用いることで約93%(16倍の濃縮)という極めて高い割合で抽出することに成功しました 。
遺伝子レベルでは見えない「エクソン」のダイナミクス
解析の結果、老化した脳では中間前駆細胞が減少し、反応性のマーカーを持つ特定の成熟した細胞集団が拡大しているなど、細胞の亜集団における動態が明らかになりました 。さらに驚くべきことに、EnrichSciは従来の遺伝子レベルの解析では見逃されていた「エクソンレベル」での発現変動も多数検出しました 。
例えば、細胞の成熟に不可欠な転写因子であるZbtb16は、加齢とともに遺伝子全体の発現量は大きく低下するものの、3'末端付近の特定のエクソン(エクソン7)の発現は逆に増加していることがわかりました 。このようなエクソンレベルの複雑な変化の背景には、Nova1やCelf2といったスプライシング因子の発現異常が関与している可能性が示唆されています 。
今後の展望
EnrichSciは、複雑な組織から特定の細胞タイプだけを抽出し、その動的な制御状況を解読するための多目的なアプローチを提供します 。カオ博士らのチームは、今後このプラットフォームをさらに発展させ、クロマチン・アクセシビリティやDNAメチル化といった他の分子層や、CRISPRなどの遺伝子改変技術とも統合していくビジョンを描いています 。これにより、多様な疾患や老化に関連する細胞集団における分子動態の解明がさらに加速することが期待されます。
https://www.cell.com/cell-genomics/fulltext/S2666-979X(25)00357-X
