胃がんの最大の危険因子として知られるピロリ菌(Helicobacter pylori)。感染が長く続くと、胃の粘膜は少しずつ姿を変え、やがてがんの「予備軍」ともいえる前がん病変が生じます。では、ピロリ菌はどのようにして胃の粘膜をそこまで変えてしまうのでしょうか。ドイツのシャリテ・ベルリン医科大学の研究チームは、ピロリ菌が本来は傷を治すための「再生プログラム」を乗っ取り、胃の粘膜を胎児期のような状態へと切り替えてしまうこと、そしてその切り替えスイッチが上皮のすぐ下にある結合組織の細胞にあることを突き止めました。
この研究成果は、2026年9月5日に学術誌『Nature Communications』にオープンアクセス論文として掲載されました。論文のタイトルは「「Helicobacter pylori triggers gastric mucosal remodeling toward a fetal-like transcriptional program via stromal IL-1β signaling(ピロリ菌は間質のIL-1βシグナルを介して胃粘膜を胎児様の転写プログラムへとリモデリングする)」」です。筆頭著者はシャリテ・ベルリン医科大学肝臓・消化器内科およびマックス・デルブリュック分子医学センター(MDC)ベルリン医療システム生物学研究所のジュリア・ベッカチェーチ(Giulia Beccaceci)氏、責任著者は同大学のトランスレーショナル消化器腫瘍学教授であるミヒャエル・ジーガル(Michael Sigal)博士です。
傷を治す「胎児様の再生プログラム」
消化管の上皮は、ふだんはWntやBMP(骨形成タンパク質: bone morphogenetic protein)といったシグナルに制御されたLgr5陽性の幹細胞によって、少しずつ規則正しく入れ替わっています。ところが組織が傷つくと、こうした通常の幹細胞に頼らず、転写共役因子YAPが主導する「胎児様の再生プログラム」が起動し、急ピッチで修復が進むことが知られていました。ピロリ菌感染がYAPを活性化することも報告されていましたが、この胎児様の再プログラム化が胃の病気に関わっているのか、そして何がそれを引き起こしているのかは分かっていませんでした。
上皮・免疫細胞・線維芽細胞をつなぐ連鎖反応
研究チームは、ピロリ菌を感染させたマウス、単一細胞RNAシーケンシング(scRNA-seq: single-cell RNA sequencing)、そして胃の上皮と間質の細胞を組み合わせて作製した「アッセンブロイド」と呼ばれる立体培養モデルを用いて、細胞同士のやりとりを詳しく調べました。
その結果、ピロリ菌感染による胃腺の過形成には、YAPに依存した胎児様の遺伝子発現の変化と、上皮でのBMPシグナルの喪失が伴っていることが分かりました。さらに、上皮のBMPシグナルを遮断するだけで、マウスの体内でこの胎児様プログラムが引き起こされました。その背後には、次のような連鎖反応がありました。まず、BMPシグナルを失った上皮細胞がケモカインを分泌し、炎症性サイトカインであるインターロイキン1β(IL-1β: interleukin-1β)を産生する免疫細胞を呼び寄せます。次に、IL-1βが上皮の下にある線維芽細胞に働きかけ、組織の再生を促すタイプの線維芽細胞を増やして、プロスタグランジンE2(PGE2: prostaglandin E2)を産生させます。そしてPGE2が上皮のYAPを活性化し、胃の粘膜を胎児様の再生状態へと切り替えるのです。
アッセンブロイドを使った実験でも、IL-1βが間質細胞にPGE2を作らせ、続いて上皮のYAPが活性化されることが確認されました。決定的だったのは、間質の細胞からIL-1受容体を取り除いたマウスでは、ピロリ菌に感染しても胃の再プログラム化や病変が起こらなかったことです。研究チームは、ヒトの胃組織の公開単一細胞データとも比較し、所見を裏付けています。
「結合組織は傍観者ではなく、スイッチそのもの」
シャリテのプレスリリースによると、ベッカチェーチ氏は、感染した胃の粘膜は単に速く増殖しているのではなく、本来は胚発生や傷の治癒のときにしか起こらない過程が徐々に活性化され、根本的に異なる状態へと移行していると説明しています。そして、結合組織は単なる傍観者ではなく、実際のスイッチそのものだと述べています。本来は一時的なはずの修復反応が、長年の感染によって慢性的な状態へと変わり、前がん病変が生じる前提条件をつくり出していると考えられます。
胃がん予防への示唆
今回の研究は、ピロリ菌感染から前がん的な組織の変化に至るまでの細胞・分子レベルの連鎖を具体的に示したものです。IL-1βシグナルや、PGE2の産生に関わるシクロオキシゲナーゼ2(COX-2: cyclooxygenase-2)の経路などは、腫瘍ができる前に介入するための新たな標的候補となる可能性があります。ジーガル博士は、胃がんのリスクが高い人はピロリ菌の検査を受け、陽性であれば抗菌薬による除菌治療を受けるべきだと強調しています。一方で、主な知見はマウスモデルや培養系から得られたものであり、除菌後にこの胎児様の状態が元に戻るのかどうか、ヒトでどこまで同じ仕組みが働いているのかについては、さらなる検証が必要です。ピロリ菌の感染率が比較的高い日本においても、胃がん予防の新たな戦略につながる研究として注目されます。
